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不埒

まっすぐ立ってフラフラ歩きたい

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おもいおもわれ


「青い花」 (志村貴子/太田出版)

読んだ。感想のようなそうでないような。

読む前からいいのは分かってたしやはり良かった。女の子の砂糖菓子みたいなはかない甘さと、その奥のほろ苦い毒、そしていっぱい泣いたらまた立ち上がれる成長途上ならではの強さ。そ~~ゆ~~のがキラッキラに抽出されてるわ。ソウルジェムみたいに。それこそ女の子のいいところ。
それはそれでもちろんいいとしてですね、この恋愛漫画が特別いいのは、想われる側が背景でも小道具でもないところです。どうして恋愛漫画というものは、女の世界というものは、想っているのが片方だけなんだ? 片方が好き好き好き好き好きで、相手がそれに応えるかどうか(基本応える)、というのが多くのパターン。相手は主人公の欲望を満たすピースとしてのみ存在する。女にとっての世界って、自分中心の円だからな。誰に対しても、こっち向くの向かないの?(向くよね?)というね。あれがダメなんだ私は。自分が相手を想うように、相手も何かに想いを向けているのではとは考えないのかね。相手は人間ではなく、背景か小道具なのかね。
何に書いてあったんだったか、「キャラ」は人間じゃないって話。ツンデレならツンデレ、ドSならドS、雌豚なら雌豚、聖母なら聖母と、その一面しかないのがキャラ。人間てそうじゃなくて多面的で、その時の気分やら体調やらで見せる面が変わるもんなんだけど、キャラはいつ見ても同じ。世間の恋愛漫画での想われる側って、その「キャラ」でしかないんですよね。そ~~ゆ~~の個人的にすごく苦手なんです。
青い花では、高嶺の花は高根の花なりに、王子様は王子様なりに、お嬢様はお嬢様なりに、元気娘は元気娘なりに、それぞれ想うことはある。ままならないことがあったり、仕方ないと諦めることもあったり、生身の体で生きているのだ。そ~~ゆ~~のがい~~いの~~~。私、実は、南ちゃんも別に嫌いじゃないもんね。ああいう女を男が好きなのは仕方がないと思ってるのもあるけど、南ちゃんも南ちゃんなりに想ってることあるでしょ。そういう描写ちゃんとあるし。
世間ではどっちなんだろうか。一面しか持たないキャラだと思ってたら意外に人間臭いのと、いつ見ても揺るがないキャラと、どっちが求められてるんだろうか。創作物に。恋愛が絡むと後者なの? キャラ固定した相手とでないと恋愛するのが怖いの?

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