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不埒

まっすぐ立ってフラフラ歩きたい

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セクシャリティとジェンダー

これを考えるきっかけになったのが、生まれた基礎からの連続的な関係を切らずに成長し過ごしている人間を感じたことなので、どうしても「自分の生きる範囲をある程度までに定めている人」と、「セクシャリティ・クライシス」「ジェンダークライシス」を必要以上に絡めて語ってしまいそうだけど、忘れないうちに書き留めておこう。

世の中には、セクシャリティ・クライシスならびにジェンダー・クライシスに、些細なきっかけで直面してしまう人がいる。というよりむしろ、非常に多い。(それがめんどくさい)
まずセクシャリティ・クライシス。他人の異性交遊を受け入れるのが苦手な人や、同性愛に眉をしかめずにはいられない人なんかがそうだ。簡単に言うと、そういう人たちはセクシャリティやジェンダーの基盤が弱いのだ。ほんの少しの異常や不都合で揺るがされてしまう。たとえば、同性愛を認められない人間としては、まずは自分が性的対象として欲情される側になるのになれていない男性が挙げられる。というか、多分これが大半。そしてもうひとつの少なくはないタイプとして、伝統的な「男と女」の関係が前提とされない世の中で生きていく力のない女性がいると思う。男に養われるしかないとか、女というだけで優遇される生き方にどっぷり漬かってるとか。つまり、世間通念的なセクシャリティの基盤を守るのに必死だからこそ弱い人たちがメイン。社会通念なんて、そんな広いだけで不安定なものに乗っかって平穏にいられるわけがない(私見)。
そして片や、ジェンダー・クライシス。これはある意味セクシャリティ・クライシスとは逆で、端的に言うと、世間通念的なセクシャリティ観の中で、自分の性的なアイデンティティを確立できない人たち、つまりセクシャリティ難民とでもいうべき人たちに起こりやすい。そもそも難民だからね。仕事を続けたいが子供を生むのは自分しかできないから我慢して役割を受け入れるべきなのか、とか、悩んだり拒否し切れなかったりする人なんかは、慢性的なジェンダー・クライシス。または、女であるがゆえのアドバンテージを享受した経験のない(少ない)女が、女であることの意義を見失ってしまったり。
と、一応2つに分けてはみたけれど、正直、わたしにとってはこの2つは特に分ける必要がない。それは、わたしにとってはどちらも、「(性的)アイデンティティ・クライシス」だとしか思えなかったから。世間が男だ女だじゃなくて、お前自身の問題だろ?と、思っていました。というか、今でもそういう問題で考えればいいのにとは思うけど、今回ひとつ気づいたのは、人間関係や生活の基盤として、男と女の番いの関係が中心に据えられていることがどうやら多いらしいということ。そりゃそうかも。だって、「核家族」っていうもんね。わたしはそれを今の今まで、過去と切り離された新しい生き方を選んだ人たちだと捉えてたが、それって間違いだよね。核家族の意義を理解してないよね。確か、核家族というものは、(比較の上では)新しい家族の形態的に学んだ記憶があるんだけど、それは、封建的な「一族」の支配から免れているというだけですよね、多分。一族の繋がりを弱くして、新たに「夫婦」という番いを中心に据えた巣作りのことなんだろうね。あくまで、人間関係の中心は「番い」。
だからこそ、セクシャリティやジェンダーに関する不都合が人間を大きく揺るがすのか。番うためには、その役割を受け入れなくてはならないから。そうしてめでたく番いを成して、その巣を生活基盤にするから。

そういう感覚は自分には全くなかった。なぜこの人たちはそこまでバランスを崩してでも足枷を外さないのか?と不思議で仕方なかったけど、番いあってこその生活であり人間関係であるなら、致し方ないんだろうな。
ああ、自分は自分、相手は相手、他人は他人、て、簡単に割り切れればいいのに。わたしはそういう考え方だから、相手不在の性行為妄想が気持ち悪いんだろうな。というところまで、納得がいった。

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