忍者ブログ

不埒

まっすぐ立ってフラフラ歩きたい

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

人間の本質

人間らしさというやつに価値を認める考え方が、最近どうにもひっかかる。

人間らしさって、価値基準にするには非常に曖昧な位置づけ。おそらく一般的な使われ方では、大別すると意味が正反対の2つになる。
ひとつは「動物的」に対する人間らしさ。もうひとつは「機械的」に対する人間らしさ。そしてそのどちらの意味で使おうと、人間はその動物と機械の間の存在という共通認識はあって、つまり同じ言葉が全く正反対の意味で使われているようなものだ。動物と機械の間の存在らしさって、丁度中間あたりとするにせよ、数値化できるわけでもないし、曖昧すぎる。で、そんなとき個々人が「人間」をどの位置に定義づけるかというとそれは往々にして、「自分」の位置になってしまう。人間てそんなもんでしょ。バカの大足マヌケの小足、一番いいのは俺の足みたいな。なーんか、自分こそが真っ当でごくごく一般的だと何の根拠もなく思い込んでしまうもの。ということはつまり、人間らしさって自分との類似性のことになる。
そんなもんに価値なんかあるか! もっと客観性を持て! バカ!
と、ここまで考察しただけでも腹の立つことしきりなのですが、多分、多くの場合「人間らしさ」って言葉は、結局のところ非合理性を指してるのだと思う。割り切れない、非情になりきれない部分、感情に流されてしまう弱さ、等々。そういうのって、少なくとも私のカテゴライズでの定義では非合理性です。目的までの無駄であり、理に適わないもの。すなわち、非合理性。それに考えてみれば、動物も機械も果てしなく合理的だ。動物は無駄なく本能のままに、機械は与えられたプログラムに忠実に。それぞれに可能な限りの合理性がある。人間だけだ。目的までに無駄をどうしても挟んでしまうのは。であるからして、動物でもない機械でもない人間らしさというのは、非合理性とすれば辻褄が合う。
しかし、私は非合理的なものが嫌いだ。自分自身の中にも非合理性は存在するけど、それも含めて大っ嫌いだ。だから、そこに価値を認める考え方とは決して相入れない。私は合理的なものが好きだ。例えが漫画で悪いけど、カーズとか、ミギーとか、ジョセフとか。あ、これ2/3が人外だわ。人間らしくないわ。
合理的って、冷たいみたいに思われがちだけど、だから人間らしくないとされやすいんだろうけど、あくまで目的あっての合理だからね。目的のためには捨てないといけないものがあるってだけでしょ。何かを捨てるとき、目的から計算しましょうというのが合理。
そして人間にとっての生きる目的は基本的には、効用の最大化。効用というと冷たいイメージだけど、つまりは幸せのことだからね。幸せのために、もちろんルールには則って、粛々と取捨選択をしていくことの一体何が悪いのか。そんなに冷たいものでもないと思うんだけど。
という自分の主義との折り合いのつかなさもあるけれど、それとはまた別の話で、人間「らしさ」っていうくらいなんだから、人間の本質を突くような定義づけをしてほしい。例えば、髪の毛こそが人間らしさと言われてもピンと来ないように、私にとっては、非合理性こそが人間らしさか?という腑に落ちなさがあるのです。そんなものが人間の本質だなんてやだ。もっと前向きなものにしてほしい。人間の特性って大脳の発達だと個人的には考えているので、非合理性だけではその全てを指し示さない。非合理性も含んで構わないよ。ただね、それだけじゃないだろうとね。大脳の発達によって進化の可能性が広がったこと、幸せが多様化して個体差も増大したこと、それを人間らしさということにしていいんじゃないのか。
みたいなことを考えるわけ。だからせめて、自分の無駄を他人に押し付けるために人間らしさなんて言葉を使ってほしくないわけ。

PR

忍者ブログ [PR]