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不埒

まっすぐ立ってフラフラ歩きたい

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共感の技術

どうしてそれで共感したつもりなのか。と、思うことがある。

あなたのいう共感て、相手を自分に重ねることでしょう? 勝手に相手の気持ちを自分の気持ちと同じだと思い込むことでしょう? 決め付けることでしょう? 実際は同じ気持ちではないでしょう。
違うでしょう。相手は自分とは人格も立場も違うはず。だから、相手の気持ちを理解するには、ちゃんと相手と自分の違いを計って理解するべきでしょう。
自分が相手の立場なら状況ならこう思う、じゃなくて、相手が相手の立場でどう思うかを理解してこそ、その気持ちがわかるというものでしょう。
相手を自分に重ねるのではなく、自分が相手に重なる。それが、共感でしょう。そうでないと、相手と同じ気持ちになんかなれないでしょう。
このふたつには、自分に合った仕事を受けることと、仕事ありきでそれに自分を合わせることくらいの違いがあります。それって、正反対ってことじゃないでしょうか。だから、できればこのふたつには、別の名前をつけてほしい。対義語的に名前をつけてほしい。
と思うのだけれど、世間ではそんなことはどうでもいいようなので、わたしがわたしのために名前をつけることにします。前者(相手を自分に重ねる)を、「利己的共感」、後者(自分が相手に重なる)を、「利他的共感」。明らかに前者に対し悪意のある名前で分類します。

おそらく利己的共感者にとっては、共感が無理のない自然な感情なのでしょう。だからこそ、共感について悩むこともないし、分類を必要ともしないのでしょう。しかし利他的共感者にしてみれば、一緒くたにされたらたまったもんじゃない。それは、自分たちは努力している、不当な苦労をしていると感じているからです。
ではなぜ利他的共感者が不当な苦労をしているかというと、先天的に、或いは初等教育的に、共感の才能が欠如しているからです。その分、技術で補わなくてはならないのです。ですから本当は、強ち不当ともいえないのです。才能の不足を努力で補うことは、生きていく上でそれが必要であるなら、仕方のないことです。

利己的共感者と利他的共感者は、感情性共感者と思考性共感者とも称することができると思います。
感情で他人に共感できる人間がいます。実際共感できているかは判りませんが、そのことで何のすれ違いも生まないなら、共感できているということにして問題はないのです。実際のところ、同じ文化圏で育った人間同士ならば、感情にそこまで大きな差は生じないのだと思います。共感と看做して差し支えない程度の差異にとどまるのだと思います。
しかしそうできない人間がいるわけです。いつの間にか、周りと違う向きに立っている。なぜか道を外れている。カテゴリ外にいる。同じものが同じように見えない、感じ取れない。そんな人間が、それでも他人に揉まれた場合、思考性共感者になるのだと思います。考えて相手の気持ちを読み取るようになるのです。おそらく思考性共感は、感情性共感者からすれば、共感ではないのでしょう。だって、「気持ち」のはずが「思考」になっているのだから。しかし、そうでもしなくては共感できない人間がいるのです。

人は、共感によって感情を習得するのではないでしょうか。
何でも、新しいことを習得するには、真似から入りますよね? もしくは、手本を見ますよね? 何かを参考にしますよね?
感情の手本を参考に真似をすること。それは共感ではないでしょうか。
だとすれば思考性共感者は、最初の時点で感情の表現に、そして同時に意思の疎通に、躓いているのではないでしょうか。
考えて気持ちを理解するというのは、1+1=2というルールを理解するのと同じ、いわば情報処理です。それは感情ではない。理解はしても、感じられてはいない。理解は理解で意味はあります。それによって、不要な齟齬が解消されもします。しかし、足されて2になってしまう1と1に、何の感情移入ができるでしょうか。どんな感想が抱けるでしょうか。
且つ、こちらは差異を越えて相手を理解できたとしても、相手には理解されることも共感されることもない。それが、思考性共感者です。



なんてことを考えた。これくらいの内容の本が、PHP文庫で出ててもいいと思うんだけど。アスペルガーがどうのみたいなタイトルで。

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