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今日は
「スター・レッド」 萩尾望都/小学館
の話を少し。
「視力はゼロ ――超感覚でものをとらえてる ――てことは
あの目は ぜんぜん 必要ない わけでしょう
念動力が あるのなら 指や手が なくったって かまわないって こっちゃ ないですか?
テレポートが できるん だから 足だって いらない!
テレパシーがあるんだ 声帯はいらない そうそう 言葉もいらない
そのうち 鼻も 口も耳も いらなくなる
岩みたいになって 転がってるってのは どうです!
考えてるだけ ―それすら 不要になる― 生きることすら 不必要に なってしまう!
これが 退化でなくて なんです?」
正に「超」たる能力を持つ火星人について、ある男がこう言い放つ。
何てことを言うんだこの人と、ショックを受けた。
恐ろしい話だと思った。でも、おそらくそれは真理なんだと思った。
それがわたしにとってのスターレッドでした。ほとんどそこしか覚えてなかった。長らく、去年読み返すまで。それほどの衝撃でした。
地軸って、公転面に対して傾いてるじゃないですか。そのせいで、回れば回るほどその回転は乱れていって、恐らくいつかは破綻するわけですが。でも、その傾きという不完全さがあるからこそ、回転してるんじゃないでしょうか。多分。
抵抗がなければ電圧がかからないのと同じように。エネルギーの完全循環がありえないのと同じように。
全てのものの存在意義っていうのは、きっとその不完全さにあるのではないか。そう気づいて、途端に全てが繋がった気がしました。
平和な世界が完成されないこと。生まれた瞬間から死に向かっていること。滅びゆく種があること。
それらは、存在していれば仕方のないことであること。
そこまで一気に考えが巡って、ならば究極的には全ての存在も活動も無意味なんだと悟りました。それがもの凄くショックでした。でも、ただショックというだけではなく、快感でもありました。
多分それまでも、なんとなくそういう感覚を与えてくれた作品や経験手あったと思うんですね、わたしの人生に。でも、ここまでハッキリ言葉で思い知らされたのは初めてで、今までモヤモヤしていたものがスッキリできた。
個人的な感覚かもしれないんですが、例えば愛する二人がそれだけで完結する(二人きりの世界に入り込んで終わる)物語とか、敵を倒してめでたしめでたしっていう物語とか、そういうの、怖いと感じてしまうんです。そこで世界が終わってしまう恐怖というか。スター・レッドとは全く逆の、悪い意味での無意味さ。それは多分、「完結の恐怖」なんですよ。「完成の恐怖」ともいえるかもしれない。
物語に結論はほしいんだけど、その結論は、「この先どうあるべきか」というものであってほしいんですね。ただ終わるだけじゃ嫌なんですね。「解決した」じゃなくて、「乗り越えた」「成長した」という結び方であってほしいんです。
恋愛ものなら、ただ二人の心が通じ合って結ばれたというだけでなく、これから先に進んでゆく姿が想像できるようにしてほしい。ヒーローものなら、ただ悪を倒したというだけでなく、今後同じような悪が現れても立ち向かっていけるような強さや成長を仄めかしてほしい。
それはその物語世界の不完全さなんだけれど、同時に希望でもあるのではないでしょうか。
例を挙げると、AKIRAの終わり方なんか、本当に気持ちいい。寄生獣もいい。彼らはここで終わらないんだと、今までの経験に意味はあって、次に進むんだと感じられる。(その分続きが見たくなって、終わったのが残念で仕方ないっていうのはあるんですけど)
スター・レッドの終わり方も、そういう点では勿論素晴らしいです。
甘くないんだよなあ。長年求めてやっと出会えた半身同士が、ただひとつになって終わったりしない。そのエネルギーがちゃんと外へ向かう。次に繋がる。
萩尾望都さんは他作品も見ると、どうやら「遥か彼方にいる自分の半身」を夢見てらっしゃる方なんじゃないかと思うんですが、それでいて甘く二人で溶け合う結末にしないところが、硬派だと思う。大人だと思う。
シビアな真理をつきつけて、そこを咀嚼して解決し、その先にも希望を持たせる。そういうところですね、わたしにとっての萩尾望都作品の魅力って。
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