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不埒

まっすぐ立ってフラフラ歩きたい

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自分に限っていえば

BL・腐女子心理研究所 http://whybllike.com/sp/index.html
まだ読んでる途中ですが、他人の意見と照合して、自分がBLに惹かれた理由については答えが大体出たんですね。

あさぎり夕と高河ゆんを好きな気持ちがほぼ全てかなと。幼い頃はそれに加えて背徳性と新奇性もあったけど。
あさぎり夕は絵が当時べらぼうに繊細で上手かったから人気があったのは確かですが、私はそれプラス人が人に対して抱く感情の複雑さに惹かれてたんですね。憧れとか庇護愛とか擬似家族愛とか友情とか、好きや大切という感情のバリエーションが豊富。単にタイプの違う二人に愛されてしまってどうすればいいの?なんて少女漫画のテンプレとは違うわけです。好きな人や大事な人はたくさんいて、その中から添い遂げるのはお互い愛し合い与え合える人、というものすごく地に足のついた恋愛観があるのです。
且つ嫌悪や憎悪の描写もなかなかシビアでした。裏打ちもしっかりしていて、真相を知れば納得できるものでした。あさぎり夕の漫画は、人と人の感情にはそれぞれの色があることを私に教えてくれたんですね。
高河ゆんも似たようなもので、自由派・拡大版といえるのかもしれません。ネットで見かけた言い回しですが、“パン・セクシャル”という名称が言い得て妙です。全ての性と全ての感情を否定しない。性行為と恋愛感情は完全に自由であるという恋愛観なのです。当時の少女漫画というのは、必ずヒロインの恋愛の正当性を主張するんですよね。でもそれって変な話じゃないですか。何故恋愛なんて個人的なやり取りが正しくないといけないのか? 正当性だけで好きになれるわけでなし、誰かに認めてもらう必要もない。そんな新しい価値観を、高河ゆんは官能的な描写で見せてくれました。それは理論武装していた自分が解放されたような快感がありました。
さらに、高河ゆんの自由さというのはその個人主義的な恋愛観だけでなく、恋人や友達という枠がごくごく軽いことにもあります。友達でも肉体関係はあったりします。それどころか嫌い合っている相手とでも。他に愛する恋人がいても。これは当時の私には非常に衝撃的でしたが、考えてみれば、時代劇や大人向けの一般作品では当然のことなんですよね。誰とでも致すことの是非は別として、恋愛と性交を混同しないのは、ある意味真っ当なことです。それに恋愛も性行為も、問われるべきは是非ではない。
とはいえ、さすがにそれを女主人公で描くのは生々しい(それもある種女性差別なんだけど)。そこで男同士にしてしまえば、ファンタジー性が高まり、許容できる。というところからのBLです。私にとっては。
ですから、感情と行為の自由さなくしてBLなしというか。それで私が描くそういうのは貞操観念がほぼゼロなんですよね。そして女性の性のタブーが希薄になった今では百合でもなんでもいけるのです。
それに、挿入行為がゴールであり愛の結晶であるみたいな価値観が幼稚に思えるんですよね。挿入さえなければセーフというものでもないし、どんな接触も単なるコミュニケーションのひとつでしかないし。それを自由に表現するならやっぱり男同士が一番都合がいいわけです。

ところでBLは結婚や出産の悩みがなくて愛だけに溺れられるからいいというのは、個人的には全く釈然としない。うわぁカーベェ(@鈴木先生)みたいなことゆーとるぅ、と思う。愛っていうくらいならそういうの真剣にやんなきゃさあ。フィクションだからその描写だけを避けることもできるし。

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