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「認めて」派は、他人に対して無神経だと思う。具体的に言うと、認めて認めてと自分は求めてきながら、相手を認める気はないと思う。認められないということを、認める気がないと思う。まず、なぜお前を認めてやらないといけないのかと。お前を認めてやることでこっちに何のメリットがあるのかと。そんな相手の事情や心積もりを全く意に介さず、自分ばかり認めて他人を認めるどころか直視すらしない自分勝手さに、気づこうともしていないに違いない。
自分の納得する結論で納得しなくては納得できない人たち。それならば、自分だけで自分の納得できる結論で納得していればいいのに、他人にも納得されなければ自分でも納得できない人たち。わたしは長年そういう人たちに認めて攻撃を受けてきたので、非常にそういう人たちに否定的なんです。正直消えてほしい。というか、現れたら基本消す。自分の前から消し潰す。だって、実害あるもの。
その人たちのそれって、自己(アイデンティティではなく※)の確立の問題ではないでしょうか。自分はこうだと思う。こうであってほしい。これが正しい。そういう、生きていくために信じたい何か。信念のようなもの。或いは、自分の行動規範。そういった、生き方の軸を確立したいのではないでしょうか。そこでね、じゃあその確立に他人を巻き込むなと、そういう話。
自己軸(と呼ぶことにします)の確立には、範囲があると思う。範囲というのは、軸の太さともいえる。その軸が根を張る範囲ととってもらってもいい。
10歳くらいまでに、この自己軸について悩む人間はそうはいないと思う。なぜかというと、大抵が家庭という狭い範囲に十分な太さの軸を持っているから。自分の行動範囲に見合った軸を、知らないうちに与えられているから。その範囲の行動でバランスを崩すことがないから。親をはじめとする顔の見える身近な人に「認め」られ、もしくは許されていればいいのだから、楽なものです。しかしその大抵がまた、いつまでもその範囲だけでは生きてはいけない。属するコミュニティが広がる。その時です。軸のバランスが崩れるのは。元の軸の太さによって、崩れるタイミングはまちまちですが、それこそ大抵が、思春期あたりにぐらつくのではないかと思います。というか逆に、そのぐらつく時期を思春期と呼ぶのかもしれません。属するコミュニティの広がりとともに、現在の自分の軸の脆弱さに不安を覚え、新しく太くて強い軸を必要とする。それが、思春期。ではないかと。
思春期って一般に広くても10代くらいを指しますけど、それよりはるかに長い人が殆どじゃないかと思う。上で自己軸を確立し直す時期と書いたけど、それって、属する世界(コミュニティ)が広がったり更新されたりする度に訪れうるものではないでしょうか。未知との遭遇に際し、人は往々にして自己軸が狂う。或いは歪み撓む。
そして多分、わたしは多くの人にとってその未知なのだろうと思う。なんて、自分で書くのは本意ではないのですが、そう認識しておいたほうが生き易い。もっと言えば、異物。おそらく特に、何らかのコミュニティにおいてはわたしという存在は都合の悪い異物。コミュニティにとってあってはならない方向に世界を広げてしまう存在。広げるというより、単にはみ出ているのかもしれないけど。その余分によって軸を狂わす人間が、私に軸を押しつけてくる。その軸を保つ位置に収まるように要求してくる。それはごめんだと去ろうとしたら、無責任にわたしの軸にぶら下がってきて自分が強くなったと錯覚する奴らとか。コミュニティの中心軸と戦うことを期待するだけのただのにぎやかしとか。わたしの軸がぶれたり倒れたりしようものならありもしない権利を振りかざして被害者面する奴らとか。
わたしの軸はあくまでわたしの立つため進むためのものであって、他人になんら影響を及ぼすためのものではありません。軸同士戦うというならそれはそれですが、他人の軸を共有しようとするのはやめてください。
何かもう、そういうことにうんざりなんです。
という観点を見つけて、ああ、そういえばわたしは東京大学物語の水野遙の回想シーンには泣くほど感情移入できたなあとか、だから一匹狼の復讐譚が好きなんだなあとか、ネウロでもシックスの淘汰の感覚に震えたなあとか、アシェラッド視点でビョルンが気持ち悪くて仕方なかったなあとか。いくつかのことに合点がいった。
わたしの「認めて!」アレルギーを、恋愛だけに限定して説明するから理解されないんじゃないかと思った。というかそもそも、好き嫌いの感情を介する人と人との関係をどこまで恋愛と線引きすればいいのかわかってないわたしに問題があるんだろうけど。でも、自己軸の確立のために恋愛をする人って少なからずいるよねえ? その人たちにとっては多分それは恋愛なんでしょ? それって、自分の問題を他人に依存して解決しようとしているようで、非常に醜いと思う。
※日本人がアイデンティティと呼ぶものは往々にして米語圏のアイデンティティではなくて、この自己軸じゃないかと思うんですよね。アイデンティティって、自我同一性ですよね。自分はこれだ!っていう、使命感や天職(職業上だけの問題でなく)のようなものでしょ。日本人はそれより、何を信じて生きていけばいいのかっていう、信条や規範を確立するのに必死なんじゃないかと思います。そしてそれをアイデンティティと呼んでしまっていると思います。
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