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仮に、不幸が連鎖するとして、悪循環は永遠だとして、触れればそれらに巻き込まれるとして、ならば 暗い淵からいくら手を伸ばそうと、果たして誰が、その手を引いてやったりするだろうか。
その外に生まれたならば、決して誰も、その連鎖と循環に触れようとはしないだろう。避けて逃げて生きていくのだろう。だって、関係ないんだから。お前たちだけで連鎖し循環しろと、冷たく隔絶するだろう。
しかし、誰も好んで悪循環の中にいるのではないのです。選んで不幸の連鎖に巻き込まれているのではないのです。そんなものを全部受け止めてやる義理なんてないのです。それは、その他大勢と同じように。
必ずとは言わないけれど、血筋と環境を、人は受け継いでしまう。貧困で生まれたものは貧困を。憎悪から生まれたものは憎悪を。そして、不幸を。
そこから抜け出そうとして何が悪いのかと考えるのが、生きる力じゃないんでしょうか。
踏みつけられたならその足にでも縋りついて抜け出そうと足掻くのではないでしょうか。何かの間違いで手なんか差し伸べられたら、決して離さず引きずり込んで、入れ替わろうと画策するのではないでしょうか。
それを責める権利なんて、生きるという目的以上に強いものでしょうか?
その恩恵を受けていないのならば、遠くの誰かが決めた秩序なり法なりに、どうして大人しく従う理由があるでしょうか。そんなもの、正直、知ったことではない。何が誰のものかなんて、誰にどんな権利があるかなんて、知ったことではない。
誰から何を奪おうと、逃げればいい。誰を殺そうと、殺されなければいい。そう考えてしまって当然ではないでしょうか。
そこまでしなくては、悪循環から抜け出して生き抜くことはできないのかもしれない。
関係ない者に迷惑をかけるななんていうのは、関係ないところに偶然にも生れ落ちた人間の理屈なのだと思います。それがどんな幸福かも知らずに生れ落ち生き長らえる人間の。
お前たちが不幸に関係ないというのなら、俺たちにはお前らの秩序も法も関係ない。
というのが、わたしがDIOを悪ではないと思う理由です。
急にまとめてみたのは、こないだ西原理恵子が出てる番組を見て再認識したからです。
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