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「半神」 (萩尾望都/小学館)
母親は魔女。魔女は娘に呪いをかける。
そうか、そういうことなんだ。
もしかすると、心理学ではそんなこと前々から答えが出てたのかな?
少し前から、「娘にとっての母親との確執と女としての幸せ」について考えていて、「半神」を今回読んで、そんなこと今更考えないとわからない自分て鈍いんだなあと思った。
萩尾望都ってすごい。そんなことをもうずっとずっと昔にこんなにきれいにまとめてたなんて。わたしからしたらほんとにすごい。
でも思えば、白雪姫だとかシンデレラだとかもそうなのかもしれない。ずっと昔からわかりきってたことなのかも。お伽噺では実母でなく継母だけれども、それでも同じことなのかも。もしかすると眠れる森の美女も。あの魔女もまた母親なのかも。お伽噺は、娘たちにすぐそばに魔女がいることを、娘たちを呪っていることを、手を代え品を代え教えてくれていたのかも。
母親は娘に呪いをかける。ことがままある。
良好な母娘関係を築けたら何も問題はないのだけれど、そうでなければ、呪いは長い年月をかけて娘を雁字搦めにする。
母親から肯定され、もしくは愛され、望まれ、それを感じて受け入れられた娘は、いわゆる女としての幸せを自然に夢見て人生を歩めるんだろう。でもそうでなく、母から愛や肯定や希望を学べなかった娘は、我知らず、女としての幸せに違和感を覚えて生きていくことになるんじゃないだろうか。
わたしはそれを、既に「魔女の呪い」って呼んでるんですけど。母親が、娘に女を嫌悪させる。もしくは、女としての人生に否定的な見方を与える。そういう長年の積み重ねを。
何となく心当たりのある人もいるんじゃないでしょうか。ああそうだって。確かにそうだって。
例えば、内☆田☆春☆菊という人がいますが、あの人も多分そうじゃないかな。あの人の場合、義父との特異な関係につい注目してしまいがちですが、でも、その後の男性関係は、母親との関係不良のせいだと思う。父親との関係のせじゃない。多分ですけどね。知り合いじゃないし。
それでじゃあ、そんな呪いをかけられて思春期を迎えたり大人になったりしてしまった娘はどうすればいいのかというと、やっぱりそれには、王子様と結ばれることなのかもしれません。
それは何も愛が女を救うということではありません。家から、そして母から開放されるということです。
もしかするとお伽噺が提示してくれていたのは、美しい心で女らしくあればいつかは王子様が迎えに来てくれるなんていう受身の人生ではなく、呪いに囚われず耐え抜いてそのときがくれば外に出て行けという自立への道なのではないかと、今ではわたしはそう思えます。「その時」というのを象徴するのが王子様だっただけで。
いつかやってくる「その時」を必ず掴み取れと。決して逃がすなと。外に出ろと。
今ちょっとぐぐってみたんですが、母娘関係を「呪い」なんてほど根深く捉えてる人はいないみたいですね。アダルトチルドレンだとか共依存とかはたくさん出てくるけど。
そういう関係を書く作家さんて、前述の内☆田☆春☆菊も山☆岸☆良☆子もだと思うんですけど、ああいう人たちって、大概結局その問題に決着をつけれてないまま書いてる感じがして、ちょっと気分が悪くなる。何で生煮えを客に出してんの?みたいな。(「日出処の天子」は好きですけど。母娘じゃないし)
だからそれを思えば萩尾望都って本当にすごいと思う。自分から切り離して、ちゃんと作品として成り立ってる。共感できる人のためだけのお話じゃないんですね。
ということも含めつつそれ以外にも、自分が萩尾望都を好きな理由がさらに深く納得できたり。
その話については、また今度。
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