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まあ、腹立つことってあるじゃないですか。憤ること。怒りを覚えること。
それで、継続的な関係にある相手には、それはあまりストレートにはぶつけられないという話。
関係を壊したくないからというのも確かにある。でも何というか、この年まで生きてきたら、プライベートで長期的な付き合いの相手っていうのは、それなりに信用したり尊敬したりできる相手じゃないですか。そういう人に、その場で生まれた感情を即物的にぶつけていいものか。それって相手を尊重してないんじゃないか。自分が相手を分析・理解できていないんじゃないか。と、思うのですよ。考えてしまうのですよ。
で、まあ、何らかの相手の言動で、腹が立つとしますよね。そこでまず、考えるわけです。ぶつけずに。ぶつけるべきかどうかを。つまり、自分のその怒りの正当性を。そこで私の思考のめんどくささが発動。何のレポートなんだレジュメなんだ研究発表なんだというくらい、正当性(もしくは不当性)の根拠をあらゆる方面に問う。
そうしたら、過去の事例が次々引き出されてぶちまけられます。その中から関連するものを一つ一つ拾い上げ、比較対照を続けるうち、今現在ついさっき生まれたはずの感情に、過去の類似例がリンクされて、それはまた、複合的な別の感情になってしまう。
そうすると、ねえ、もうそれって、最初の感情じゃない。目の前のその相手に対するものではない。よって、ぶつけるわけにはいかない。自分の中で繋がって同カテゴリに入れられてしまったら、最初に目の前の相手に対して生まれた分だけ抽出しろといっても、それはもう無理。それって既に、感情じゃない。ぶつけたって何もすっきりしない。つまり、誰にとってもいいことがない。
というわけで、結局その感情は、自分の中で不発弾として封印するしかないのです。もしくは咀嚼・嚥下、あるいは消化・排泄。だから怒りをぶつけるには至らない。
また私が、相手に自分に合わせて変わってもらうのを良しとしないというのもある。嫌いなんです。そういうの。できるだけ自分を勘定に入れずに他人には生きてほしい。どうか基本的に私のことは枠の外として様々な決定をなさってください。
というか、他の人はそうは考えないんだろうか。(またまたこのフレーズ)
まず、自分で自分をそこまで正当な人間だとは思わない。その思考にせよ行動規範にせよ。少なくとも、他人に強要して許されるほどではない。また、他人と共有するのに適切だとも思い込めない。そんな自分に合わせて他人に変わってもらうなんて、それは世界全体としての損失になるんじゃないのか。ああ、私は、世の中全体として資源や能力が無駄になるようなことが嫌いです。そういったものは最大限活用されていてほしい。
自分の道徳や規範はあくまで自分ひとりが生きていくためのものなので、他人に適用した場合の不具合が非常に怖い。
それがまた、自分が信用・尊敬できるような相手であるのならなおさら、その能力を無駄にしたくない。あなたはあなたを最大限生かして生きてください。そう願う。そんな対象について、仮に明らかな欠点があるとしても、それは即ち取り除かなくてはいかないものだろうか。とも考えてみる。
人間はそのすべてを包合してその個人である。美点も欠点も含めて。そうであるならば、その欠点があってこそ生かされる美点でないと、誰に断言できるのか。誰しも欠点がある(おそらく)。その欠点は全体のバランスを取るためには必要なものである。それが運悪く自分を直撃したからといって、それを取り除くなんて許されることなのか。とまで、考えてしまうわけです。だって嫌なら、自分が場所を変えることもできるんだから。それをしないのなら、受け入れるという選択肢もあってしかるべきでしょう。
そこで、目の前の他人のバランスと自分の快適性のどちらを優先するかを自分に問う。で、前述のような相手であれば、自分が少し立ち位置や見方を変えることで解決することになるわけです。そのための時間が、私の不機嫌時間。
以前は一通り怒ってから考えていたことを、最近は先に考えるようになったということなんですけどね。
それにしても、めんどくさい考え方だな。自分でも思うわ。
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