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BLっていうのは、愛されたい人のためのジャンルなんじゃないかと思った。
そんなわたしにとってBLとは、
「同棲愛」(水城せとな/リブレ出版)
これ一択です。
何と復刊されましたよ。喜び勇んで買い揃え読み返しているところですよ。万歳!!
わたしの愛されたいが間違いなく詰まっている漫画でした。ああ、あの頃のわたしって愛されたかったんだなあ。こんな風にに愛されたかったんだわ。
BLは或いは、許されたい人のためのジャンルなのかもしれません。もしくは、許したい。自分で自分を許したい。認めたい。認められたい。自分の存在を。
そうじゃないのかな? BLといっても色々あるかもしれないけど、BLのBLらしさってそういうところじゃないのかな? BLでなくてはならない理由って、それじゃないのかな?
結局のところ熱狂的に人気のあるBLって、そういう作品のような気がする。でなければ、エロ的価値?
考えてみれば、わたしは実はそんなにたくさんBL読んでない。作品名も作者名もほとんど出せない。高河ゆんは入り口だったけど、あの人実はBLの人ってわけではないね。尾崎南は一時ハマったなあ。茶屋町勝呂さんは好きだったけどあの人BL雑誌に描いておきながら内容はそうでもないんですよね。
で、最終的にはこの「同棲愛」。水城せとなですね。BLで好きな作家っていうと。最近のは読んでないけど。
水城せとなの90年代あたりの作品こそが、まさにわたしの愛されたいであり認められたいであり認めたいであり許したい許されたいです。今、読みながら当時の自分を振り返って客観的に痛感する。
あの頃のわたしはきっと心底愛されたかった。そしてアイデンティティを確立したかった。その時の等身大の自分を受け容れられず否定して、でも違う何かになるまでの空白が怖かった。今のまま端っこに寄りかかっていられればそれはそれで楽なんだもの。
普通と呼ばれる列に並びたかったけど、立ち方がわからなくて不安で怖かった。嫌いであってもその時現在の自分が、既にアイデンティティになっていて、それを捨てることも怖かった。
愛されたくても今の自分で好きになれない自分を愛されてもそれでは駄目なんだけど、否定されるのも変われと望まれるのも受け容れられない。
そういうお年頃だったわたしは、恥ずかしいことに?光太郎に自分を重ねまくって読んでいたわけです。終わらない自己嫌悪の中でも自己嫌悪だけに溺れられるほど強くなかったので、自尊心をも同時に満たそうとしていたわけですね。ああもうほんとにもうめんどくさい小娘だなお前は。
この話結局それぞれどうなるんだっけ・・・。
あの二人はくっつくしあいつはあの子とだし。たしかあいつは女の子と付き合うようになるんだけどそれってどの子だっけ。あの子? どうやって出会うんだ? あの子の妹だった気がするんだけどそれもどこでどう出会うんだかわからん。あいつ経由? なんで? ていうかじゃああいつはどうなるんだっけ・・・。そういえばあいつも出てくるはずなんだけどどう落ち着いたのかまったく思い出せん・・・。
結構思い出せないとこがあって、普通に続きが気になります。
これ読んでた頃から、最終的には女の子とくっついてくれると結構ほっとする人間でした。結局のところ人生ってそういうもののような気がしていたんですよね。この漫画には、わたしの「人生ってこういうもの」もたくさん詰まってるように思う。というか、これに影響されてそう思うようになったのかもしれないですけど。
その後の人生結構そういえばそういうものです。よくないよ。お話に哲学や人生観を求めるのは。周りとはどんどん乖離していって結局何の解決にもならないからね。
そして、わたしの描く(描いてきた)ホモ漫画って、完全にこの人のパクリなんですね・・・! 坂沖から沖陸奥への流れなんか、どう見てもパクリですよ・・・。
と思うのはわたしだけだろうか・・・。まあいいけど。
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