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本当にいい年をしていまだにわからないけどさ、どうして親を愛することができるのか。自分の奥の奥の根本のところに、「自分で選んだ親がほしい」という願望がある。誰だって自慢できるような親がいいし、自分に都合のいい親がいいだろう。でもそれよりも、望んだわけでもないのに自分をほったらかしたり行動に制限をかけたりするような相手を、どうして好きになれるのか?
なんてことをずっと考えてたけど、それはきっと、人間て本当にまず誰かを愛するように生まれてくるんだろうなと思った。『寄生獣』のパラサイトたちには「この種を食い殺せ」という命令が来たのと同じように、人間には最初にその命令がくるようなものなんだろう。それが生きていくうえで一番大事なことなのかもしれない。
生まれたばかりの生き物は弱い。1人では生きていけない。だから誰かの愛を必要とする。というのは実は全くの逆で、誰かの愛を必要とするために弱い存在として生まれるんじゃないか。そして与えられた愛を受けて自分も相手を愛するんじゃないか。
でもその命令を実行できなかった人間もいる。親ないしそれに准ずるものを愛する機会がなかった人たちだ。でもそれは機会に恵まれなかっただけで、実はその命令はちゃんと届いている。その実行されなかったプログラムは、固いロックをかけられて心の奥底に眠り続けるか、あるいは制御されず他の回路にも支障をきたすかだ。
しかし不幸中の幸いというか、不具合として蟠り続けたそれが、後に実行の機会を得ることがある。
その場合、実行対象は親ではない。少なくとも、実の親ではない。しかしそれはある意味、血のつながりなど必要としないほどに完全な「親」という存在ではないだろうか。「親」があくまで血縁を表す言葉であるのなら、それを「愛」と言い換えてもいい。
つまり、そういう話ではないかと思いました。
おかしいな…。これ書く前は「母親という性」とか「母親という種族」とかそういう言葉で書くはずだったのに…。
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