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この2冊の中でも、特に『訪問者』と『かわいそうなママ』の話。
昔、うちの父親が、家族の誰の話も聞き入れず(「お前とは話せん!」って明言された)、一人車内で生活し、給料も1銭も家計に入れなかった時期があって、精神的に途方に暮れたわたしはこども110番(的なところ)に電話して、「そういうときはおじさんかおばさんか、そういう大人に間に入ってもらって・・・」って、そこまで聞いてうんざりした。全身が非常なる徒労感に襲われた。
ああ、この人何にもわかってない。何の役にも立たない。そんな試みが可能で実を結ぶような見通しがあるのなら、誰も他人に相談したりしない。
この人は、こんな対応で、一体何人の子供を今まで救えたんだろうか。児童虐待が多発する(多分)現在でも、そういうところの人たちは、こんな通り一遍のことしか言わないんだろうか。それは、親の虐待から逃げて保護を求める子供に、「お母さんの許可を取ってらっしゃい」って一旦の帰宅を促すのと何か違うんだろうか。
ちょうどそんな頃だと思うんだけど。上記の2篇を初めて読んだのは。
だからだろうな。「子供の気持ちがリアルに描かれた話」だと思った。
でも、そうでもないのかもしれない。描かれているのは子供なら誰でも抱く気持ちではなく、単にその時のわたしの気持ちだったのかも。
本当に、萩尾望都は、いつもわたしの人生を肯定してくれる。
子供は子供なりに、大人に対して言ってはいけないことがある。言わずに心に留めておかないといけないことがある。
間違ってるから言ってはいけないのではなくて、言ってはいけないということは間違っているということなんだと、自分に納得させるしかないことがある。
大人も強くないから、おそらく十分に弱いから、もっと弱い子供に歪みを順送りにしてしまうことがある。
それを理解し受け入れててしまうくらいには強い子供がいる。ということに、弱い大人は往々にして気づいていない。
歪みを課せられた子供は、それを更に順送りにするもっと弱い何かを、決して容易には見つけられないというのに。そしてもう一段階賢い子供ならば、歪みは次に残さず消さなくてはならないということにも気づいてしまうのに。
すべてを丸く収めるのは、きっといいことなんだろうけれど、きれいに収めるためには誰かが不自然な型にはまらなくてはならない。それに気づかない無神経さが、いつも弱い何かを圧迫する。
そういうこと、当時は普通だったから気づいてたのに気づいてなかった。
それに実際、自分くらいの歪みを受け止める子供って、そう少なくもないと思う。自分は特別は不幸でも不運でもない。世の中の平均から考えれば。
ただ問題は、その歪みを平気で無神経に順送りにするだけの人間がいるということなんだと思う。
それはどこかで止めなくてはならないのに。でも、止める方法なんて順送りにされた子供にはわからない。だって他のやり方を見たことがないから。
という時に、それを提示してくれるのが、わたしにとってはいつも萩尾望都です。
周りの大人が誰も教えてくれないことを教えてくれることがあるから、わたしは漫画ばっかり読むようになったんだろうな。
そういう気持ちを語るのに、最も適した一人称は、「ぼく」であるような気がする。少なくとも自分はそうだった。最近では、「俺」であったりもする。
だから自分にとって男主人公の話を描く理由は元々はそれです。自分の描きたい気持ちに適した一人称を選んだ結果です。
で、萩尾望都もそうなのかなあとちょっと思った。ら、納得できた。
んですが、他の人はどうなんでしょうね?
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