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不埒

まっすぐ立ってフラフラ歩きたい

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わたしはだいじょうぶなあなたたち

下の続き。

それでも自分を受け入れてくれる、もっと具体的に言うと、結婚してくれたり付き合ってくれたりする相手がどこかにいると、いつか現れると、少女たちがさしたる不安も覚えずに信じていられる根拠は、多分、中流意識と親への肯定なんでしょうね。
親は結婚し、人並みの家庭を築けている。だから自分もできる。それなりの相手が見つかる。自分は、そこまで普通から外れてはいないから、親と同等程度の普通の幸せを享受できる。多分そういう感覚でしょう。そしてわたしが何より女向け漫画で共感できない(必ずしも嫌いというわけではないが)のは、正にそういうところ。自分が普通だから特別な不幸には遭わずに人生を送れるという、根拠のない自信。それに起因する傲慢、だからこそその基礎が揺るがされたときの異常な攻撃性、等々。人は、それを入れる引き出しのない何かに襲われたとき、怒りを露にしてしまうものだから。信じていたのとは違う現実がやってきたとき、その不都合を拒絶するために死に物狂う。
そんな時、ですね。最初から未来の平穏なんか信じておらず、危機感を抱き続けた人間からすれば、脱力するほどに馬鹿馬鹿しい。だってこちら側からすれば、その危機感こそが備えであり、だからこそ憂いがないはずなのに、それを見ぬ振りで避けてきたキリギリスたちがどうしてそれを自業自得と諦められないのかと。いいじゃない。今まで素敵な夢を見てきたんでしょう? しかも今躓いたのだって、偏に自分自身の失敗でしょう?
という視点で恋愛を見ていてくれるのが、安野モヨコとジョージ秋山なんですね。わたしにとっては。自分が誰かに愛されることや受け入れられることが当然ではない。決してそんな甘い思い込みを抱けない。しかしそれでも弱さゆえに、耽溺したくなることもあるのだけれど、その後には必ず、絶望やしっぺ返しやちょっとした地獄が待っている。そんな風にしか先を見られない。

だからほんとに、自分のことを好きと言ってくれる人が現れたとき、真っ先に「何で?」ってなりますね。「どこが?」みたいな。わたし本人のことにせよ、わたしの描いた何かのことにせよ。ひどいときは、「この人また勘違ってる」って。
それはつまり上の例とは逆の発想で、自分を普通だと思えないし親も肯定できないから。且つ、自分自身が誰かや何かを好きになるとき、大抵はっきりした理由があるから。

しかし、どっちが正しい間違ってるの問題ではないにしても、わたしの考えのほうが論理的(何の理由もなく誰かに価値を認められるわけがない)だし、現在の男性の非婚化やそれに伴う女性の婚活での困窮ぶりを見るに、やっぱりわたしの考えのほうが現実的だったんじゃないかと思う。そうじゃない?

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