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「理解されたい」なんていうのは、女とオタクに特有の欲求なんじゃないか。言語中枢が発達して初めて生まれる欲求に違いない。なぜならそれは、言語を介してしか為し得ないレベルの「理解」を指しているのだろうから。
おそらく言語の発達以前にあったのは、せいぜい「愛されたい」であった筈だ。そしてそれよりもっと原始的には、「ヤリたい」。それが身も蓋もなさすぎるというなら、「受容されたい」。
つまり何を論じたいかというと、真実の愛や恋というものは果たして何なのかと。上に挙げたうちのどれなのか、もしくは残念ながらここには含まれないのか。
愛とは与えるものだとするならば、残念ながらこのうちのいずれもそれには該当しない。与えることは欲求ではありえないから。或いは、「与えたい」という欲求でしかありえないから。
しかし仮に愛とは動物の本能であるとするならば、唯一「ヤリたい」がその本物たりうるだろう。肉体的な繋がりを欲することは、ある意味純粋だから。ひとつになってもいいと思えることは、とても強く深く相手を受容する心構えができているということだから。
だが、愛に限らず恋についても、その本質は「好き」という濁りのない気持ちであるとするなら、答えを出すのは桁違いに困難になる。
「好き」。何かを好ましく思う気持ち。それは欲求なのか? 欲求はそれこそ「濁り」ではないのか? 相手を欲しいだとか所有したいだとか、そんな欲求と完全に切り離された、ただの、「好き」。その美しさを本物とは呼ばないのか?
好きであれば、近づきたくも触れたくもなる。それは否定できない。とすれば、「好き」とは同一化欲求か。だから往々にして欲しい、所有したいに発展するのか。
ではこう考えてはどうだろう。好きであり、近づきたい、触れたいを経て、欲しい、所有したいに到るまでが恋。そして、そこで相手を慮り、求めるより与えるようになるのが愛。
だとすれば、あなたの恋う相手、愛する対象は誰ですか。各々のそれらについてに解に、今私は非常に興味がある。
↑今の研究テーマ↑
思考の赴くままに書き綴ったけど、「恋う」って多分語源は「乞う/請う」と同一だし、「愛」は宗教(主にキリスト教)ありきの言葉だから、強ち間違いではないのでは。やるな、自分!
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