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「ヴィンランドサガ」 (講談社/幸村誠)
今回は、このあとがきの話。
ヴァイキングの時代には、強さこそが正義で、絶対で、弱いものは支配されたり隷属したりするしかないのだという。しかしそんな時代にもきっと、その価値観ややり方についていけなかった人間が少なからずいたはずで、その人たちはどうしていたのか? そもそも、力さえあれば他人の生死すら自由にしていいのか?
いいとは思わないけど、悪いともいえない。それはひとつの価値観であり、実際、世の中では実は普通に行われていることじゃないか。と思うのですが、どうでしょう。例えば自然界で。人間以外の生き物は、基本、そうですよね。弱いものは死ぬしかない。それに人間だって、弱い他の動物の命を奪って生きている。菜食主義者だって、じゃあ植物ならいいのかという話で。人間だろうとその他の動物だろうと植物だろうと、命にかわりはない。奪える命を奪って、全ての生き物は生きるしかない。奪える命とはすなわち、弱いもの。
食べるために殺すのはともかく、奴隷として飼うのは間違っているといっても、じゃあブロイラーは? 人工的交配で増やされる愛玩動物は? 生け花は?
まあいい。人間とその他動植物は別と考えることにしよう。だとすれば確かに、力だけが正義ではないとも言えるでしょう。だって、人間の生きる能力は戦闘能力だけじゃないからね。他にも種として繁栄するための手段がある。だから主全体の利益を考えたとき、力だけが正義では都合が悪い。という考え方もありだとは思う。
でも、フィジカル以外の能力を伸ばしていって、その先には本当に更なる繁栄があるのか? それこそ、生き物としての道を踏み外すことじゃないのか? 地球全体にとっての異物になって、結局は自分の首を絞めることになるんじゃないのか。
というところまで、ヴィンランドサガは論を広げるのかなあ? いや、別に広げてほしいわけじゃないんだけど。というか、多分こっち方面には広げないだろう。
つまり、「人道的に」の話なのか、「宗教(キリスト教)的に」なのか、もっと根本の、「生物的に」なのか、どの範囲でオチをつけるのかなあということなんです。
結局、生きるためとはいえない殺生を行うのは人間だけで、それは生物的な「したい」という欲求以上の欲求があるからで、その欲求は大脳の発達ゆえに生まれるわけで、大脳がさらに発達してこそ、「正義」なんてものを問うわけですよね。みたいなことを私は考えるので、力の正当性について語り始めたら、ついこういうことを考えてしまうのです。
もしかしたら私とは全く違う方向へ進んでいってオチがつくのかもしれないんだけど。
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