[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
≪ その権利 | | HOME | | 死神2号 ≫ |
塀内夏子さんは、絶対にあしたのジョーを見てイカロスの山を描いたに違いない。
といっても、自分はあしたのジョーを知る前に坂沖陸奥を描いたんだけど。
男2人と女1人の心中の話。誰がどこまで行けるのか。他はそれを追えるのか、ついていけるのか。その先に何があるのか。
複雑にもつれ合って解けず、道連れとなった3人の命綱--そう思っていたのに、ある時その1本が切れる。そこで残された2人の間に、依然はだかり続ける固い三角関係。既にバランスのとれないそれを、2人は律儀に守り続け、背負ったまま戦い続け、完遂せんとす。完遂とは、紛うことなき全ての終わりだというのに。
そして、遂に男は燃え尽きる。最後に女の名前を呼び、自らの生きた証を託して。女に命を託して男が死ぬというのは、ひとつの美学だと思う。それが次世代に繋がる命であればなお良いのだろうけれど、男はそこまで出来てはいなかった。薄汚い使い古しのグローブ、それだけしか遺せなかった。
「あんたに、もらってほしいんだ…」
一匹狼の風来坊が、その女との絆を繋いで死ぬことを選んだ。そして女は見届け、預かり、受け入れた。そんな心中の顛末。
これは別の作家さんですが、ボクシングを、「ゆっくりと自殺しているよう」だと表現した人がいました。きっと正にその通りで、だからこそ3人の心中のモチーフとして最適なんだろうな。
最終回は、何がどうなるか知っていながら、ほんとに感動した。1人の男の人生に決着がつくその達成感と喪失感、痺れるほどのカッコ良さ、十二分に堪能できた。作中人物も読者も、みんな感じたに違いない。
最近はほんとに、そういう終わり方ってないよねえ。人生の締めくくりなんて、今こそ選べる時代なのに。遠すぎて考えることすら馬鹿馬鹿しいのか。そこに美学はいらないのか。
回想シーンの使い方にしても、昔ならそれは走馬灯と同義で死亡フラグだったのに、今ではそのキャラクターの生い立ちの哀れさで同情を誘うのが主な目的だもんな。同情買って生かしてもらうことって創作の中でそんなに価値のあることか? 語りたいテーマがあってそれを強調するなら、どう考えても終わりのためにこそ来た道を振り返るべきでしょ。そういうの見たいよ。
しかし本当にジョーはカッコ良く……。何であんなまつ毛長いの…セクシーすぎるやろ…。声もあれもうあれだけであおい輝彦さんに惚れてまうわ。助さんとは思えんわ。
声といえば、ジョセフの声は銀さんらしいけど、なんかなあ…。あの人北関東訛りなんだもの。わかってるよ! ジョセフについての理想が高すぎるだけなのは!
≪ その権利 | | HOME | | 死神2号 ≫ |