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不埒

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少女の堕落と崩壊

岡崎京子について、ちょっと前の記事で触れたんですが、補足っていうか本語り。


こないだは、岡崎京子は恋愛漫画の性表現を過激化した、みたいに書いたんですが、別にあの人は、貞操観念をブチ破っただけの人じゃないんですよね。少女たちの性行為を推奨した人では決してない。

あの人の作品では、大概エキセントリックな女の子達は早くに破滅を迎える。
どこかの後書きで書いてらしたけど、「女の子が堕ちていく様が描きたい」って。
まさにそのとおりなんですね。
憧れの対象として現れたはずの一般人の先を進んでいる女の子は、ほぼ例外なく、腐敗する前に落ちて消えていく。
では幸せを掴むのはというと、至って普通の女の子たちです。
かっこいい先輩に憧れてたり、限られたお小遣いで自分を磨いたり、彼氏とのデートより女の子同士の時間を素直に楽しめたり、日常のささやかな幸せと不幸せに一喜一憂して過ごしたりする、そんなちっぽけな女の子たちです。

こういうところ、本当に少女漫画だと思うんですね。スタンダードな女の子のためのお話。
それこそシンデレラや白雪姫の時代からの決まりごとで、多くを望まずにいれば最後には必ず報われるし、望みすぎたり走りすぎたりしたらいつか破滅を迎える。

ただ、そういった古典と違うのは、その両方を、女の子の選択肢として等価に並べたことではないかと思います。
ささやかな生き方にはささやかな幸せとささやかな不幸せ。
華やかな生き方には言い知れない快感と計り知れないリスク。
どちらでも、その気さえあれば選ぶことはできるんだと。だって、そういう時代だったから。

個人的な感覚ですけど、神田うのや吉川ひなのが出てきたとき、わたしものすごくびっくりしたんですね。
だってほんとに、岡崎京子の漫画みたいだったから。まさかあんな日本人がいるなんて思ってなかった。
現実が漫画に追いついたんだと思った。
そういう時代だったんです。(と、思う)

岡崎京子はそうやって、本当はいつの時代も語り継がれるスタンダードを、その時代に合わせて描いただけなんだけど(多分)、そのフォロワーたちはその軸にある精神性を踏襲せずに、エキセントリックな表現だけを加速させていったわけなんですよね。残念なことに。
今の少女漫画を見てるとほんとに残念だ。
どう生きることもできるけど、そのリスクはあるんだってことは、無視するわけにはいかないと思うんだけどなあ。
結局、現実の女子の求めるものを追いかけてるだけですよね。媚びてるだけ。新しい何かを見せてひきつけるような作品が現れない。少女たちの憧れの対象にはなれない。

岡崎京子は時代を許容して、だからこそ説教臭くならずに、女の人生に降り注ぐいくつかの残酷な現実を見せてくれたわけです。
あの才能は唯一無二・・・とは断言できないけども、時代の先駆者とはいえるんじゃないかな・・・多分。

受け売り臭いですけど、女向け漫画って、大きく分けると二つですよね。
女として生きる方法を提示するか、女として生ききれない場合の生き方を提示するか。
後者はどうやら今でも崇められる存在らしいんだけど(それも個人的にはあんまり好ましくはないけど)、前者の凋落ぶりったら・・・。
でも仕方ないよねえ。憧れなくても現実に体験できる生き方ばっかりなんだもん。誰でも簡単に主人公になれる時代。
それに、もう女の子は、どう生きてもかまわないって時代になってるんだもん。

中高生女子の憧れる職業の2位だか3位だかにキャバ嬢がランクインしてる時代って、まあ、そういう時代ですよね。

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