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わたしはやっぱり、プッチ神父寄りの人間だと思いました。本来はね。
だって、小学校から高校にかけての夢が、「選ばれた人間ばかりのところに行きたい」だったからね。
ひたすらそんな国を捜し求めた小学生時代。(ユ☆ダ☆ヤ人になろうかと思った)
そこに行くために選ばれた人間を目指した中学生時代。
行かなくても作ってしまえば早いんじゃないかと思った高校生時代。
で、結局、行けも作れもしないことに気づいたんですけどね。
(高校の時は、「教祖になる」って本気で公言したり、「絶対遊説家が向いてる!」なんて同級生に勧められたりと、かなりヤバイ方面に沸騰しておりました)
そうか。ペルラのことは、ただのきっかけなんですね。目的じゃないんですね。2つめの、かつ決定的なきっかけだったんですね。
なら解る。プッチ神父の気持ち解る。
丁度、そういうタイミングだったしね。
昔の自分の気持ちを強烈に思い出す機会に恵まれ(あえてこの言葉を選ぶ)ました。
だから、プッチ神父に改めて共感します。
様々なことが起こる。次々起こる。それらは全て、何らかのきっかけになりうる。
それはすごく解る。すっごく解る。
そうあるべきだ。折角なんだから全てを何かのきっかけにするべきだ。そうして先に進むべきだ。
プッチ神父の思想はわたしには全く否定のできないもので、実はそうあるべきだと思うし、その思想を抱いたまま最後まで胸を張っていた彼は、清清しく、素晴らしい。
でも、やはり、勝ってほしいのは、正義であってほしいのは、徐倫でありアナスイでありエンポリオです。
結局はそうやって、正義は決まってしまうんです。多分。
だって、アナスイには確かに希望があるとわたしも感じてしまったんです。
成長する徐倫を応援せずにはいられないんです。
エンポリオはみんなの希望だと思うんです。思いを託したいんです。
「過ごす」とか「暮らす」って言葉を考えた人はすごいと思うんですね。
時なんか放っておいても過ぎるのに、日なんか勝手に暮れるのに、それを、ただ過ぎさせず暮れさせず、あくまで「自分」が「過ごし」、「暮らし」ているんだと思った人。
運命は決まっているのかもしれないけど、決まっていたからってなんだというのか。
実際に、過ごし、暮らすのは自分でしかない。
運命を「切り開く」という考え方は、多分、そういうことなのだと思う。
それを正義だと思わなくては、生きることに、繋ぐことに、意味がなくなってしまう。
そして悪は、最後の最後まで、自分の意義を、価値を、正当性を、誰かの判断に委ねたりしてはいけないのです。
自分を正義だと信じ、行動で証明しなくてはならないんです。
そうすれば、それは正義になるからです。
自分中心に世界を回してしまうんです。圧倒的な力で。
たとえ世界の全てがそれを拒もうとも、それを振り切って捩じ伏せることで、証明するんです。
と、いうことなのだと、思いました。
わたしそういえば、昔、読書感想文得意だったんです。
毎年学年で選ばれてたもん。県で賞もらったこともあるもん。
源義経の伝記で書いて、「小学生とは思えないうがった見方が云々~」て言われたよ。何かね、「何でこの人はこんな簡単に部下の言うこと信じるの?」とか、「こないだまでよく働くから重用してたくせに現金すぎる」みたいなこと書いたんだよね。
実家からはまたまた早々に帰ってまいりました。
姪っ子がしめじがどうしても嫌い嫌いで食べようとしないので、「形が下品で気持ち悪いんやんな」って助け舟を出してあげたら、ものすごく妹に怒られました。罵倒されました。「バカ!!バカ!! アホ!! バカ!! アホ!!」って・・・。あんた、あたしじゃなかったらショックで死んでるよ!!
あんたの子らが言うからときめきトゥナイト朗読してあげたの誰だと思ってんだ!!(「それはそれこれはこれ」~~?)
しかもそんなわたしを冷ややかに見つめやがって! なにその「さっむ~~~」的な蔑んだ目!! わたしだって好きでやってんじゃないよ!! あんたの子がしつこく頼むからやん!!
とりあえず、色々思い出した。原点回帰。
またまた、こんなタイミングで最終巻出るんだもんな。そりゃあ色んなきっかけになりますとも。
無駄な戦いはしてはいけないというのは、本当に戦うべきときのためなんだと思いました。
と、いうわけで、はばタンの武勇伝についてはまた今度!
http://himasoku123.blog61.fc2.com/blog-entry-394.html
(マニアックで変態的な下ネタなので注意)
わたしは面白いと思ったんだけど、それどころか感動したんだけど、ダンナは、キモイって言うんですよね。
続いてしまうのですよ。(前の記事から)
萬銀が死ぬほどカッコいいので、持ってない最終巻(3巻)を、うろ覚えで描いてみた。
今、男らしさとか強さとか勢いとかを求めているようです。
YAZAWAとか・・・長渕のライブ行ったら、もしかしたらすっげー完全燃焼して帰ってこれるかもしれない。今なら。
大黒摩季姉さんも、アルバム買わないと・・・。やっぱりベストかな。
わたし、歌だとかの類にとっても影響されやすいです。
説明されると絶対最初の二言三言くらいしか聞いてないんだけど、歌とかだと、流してるうちに内側から変えられてしまう感じ。
ところで、自分の昔の本読み返してたんですが
今年のバレンタインは(つまりホワイトデーも)土曜なんですが、こういう年って、もしかして処女童貞を捨てる中高生が多いんだろうか。
祭日に設定されたら、もっとすごいことになるんだろうか。
先々週の只野仁で、江守(徹)さんが漢詩を朗々と暗誦なさっていたけれども、あれがギャグだと分かる人はどのくらいいるんだろうか。
最近ではもしかして、元パパとか前パパとか、そんな言葉があったりするのかな。
政権ブルーって・・・まさかと思ったけどほんとに、「わたしこのまま政権とっていいのかしら・・・」ってそういうのか! おま・・・お前らほんとになぁぁぁぁぁ!!! 政治家なんかやめちまえ!!
昆虫までもカタツムリになってしまうのに、マイマイカブリはそのままなんだ・・・。へー。
ダービー兄にジョセフが勝てなかったのは、主人公じゃないからとしか思えん。
あれはさー、ジョセフの得意分野じゃん。勝てないわけないやん。
移民なのに不動産王にのし上がるって、アンタそんな人がさー、駆引きで負けるもんか。
誰か萬銀描かないかな。萬銀・・・萬銀!!
以下に特徴を挙げておくので、みんな自分の心の中の萬銀を描くといいよ! そしてわたしに見せてくれ!!
・グラサン
・坊主でハゲが筋に入ってる
・胡散臭い大阪のオッサン(フリーのヤクザ)
・顎が細くて少ししゃくれてる
・キレたらヤバイが普段から何か空気がヤバイ
・絶対どっか体悪いやろってくらい細くて骨ばってる
興味をもたれた方は、うちの練習帳見てみてくれるとありがたい。そして描いて・・・!
「ヨタヨタのジャンキーどもに舐められてたまるかよ。こちとら健康優良不良少年だぜ!!」
「ワシか・・・? ワシはフリーのヤクザ者や・・・・・・!」
どっちがよりカッコいいのかってそれすごい難しいよ!(どっちでもいいよねごめん)
最近このブログの在り様が安定してきた気がする。
そんな今、果たして閲覧者は増えてるのか減ってるのか、みたいな、そういうのがちょっと気になったんですね。たまに、ブログ検索とかで来てくれてる人もいるみたいだし。
興味ない話ばっかりのブログって、そのうち自然に見なくなると思うんだよなー。
うちって、変にマニアックじゃないですか。あちこちに偏ってる。ていうか視点が偏ってる。
そういうブログです。
もしも、二次創作ホモが禁止されたら・・・と考えて、明らかに誰にも望まれてないものを描いてしまいました。
↑で、「別フレ」の略だと思う人っているの? しかし別フレ自体も別冊フレンドの略だ。
だから何だ!!
バナナフィッシュ、読みました! 読み直しました。
兵庫県に帰るたび、この県、独立すればいいと思う。いつも思う。
南北が海で、山も川も平野にも恵まれてて、観光地も港もある。素晴らしい。自給自足やっていける県No.1ですね。
神戸と姫路(姫路城)と各温泉街で観光客から金ふんだくって、あ、伊丹や川西辺りのゴルフ場でもふんだくって、かつ、他都道府県民からは通行料を取ればいいと思う。
中国地方以西と関西を繋ぐラインを占拠! 淡路島と本土の間も兵庫だからね! これ本気で儲かるよ。
和牛の元祖神戸牛なんていうけど、実際牛は殆ど三田とかで育ててるからね。神戸だけ独立とか許さんからね。絶対県単位で!
http://news4vip.livedoor.biz/archives/51254302.html
ほんとに、県単位では知名度低いけど、実は有名な観光地やハイレベル施設がたくさんあるんです。
言っとくけど、灘高と同レベルくらいの進学校も他にもあるんだよ。(わたしが行ってたわけじゃないが)
ひとつ気になるのは、播州人は、尊敬語は使うのに丁寧語は使わないことだ。
「何しとってんじゃい?」(訳「なにをなさってるの?」 下線部が尊敬語)
語尾に丁寧語表現は何故か使われない。ていうかほとんどケンカうってるような言い方。天然の慇懃無礼?
何だかんだで実家からはさっさと帰ってきてしまいました。
また何度か行き来はするんだろうなー。という感じです。
大抵の物事には、法則と例外があって。
それを描くんだと思ってました。
例えば、
銀さんは、人が死んでも泣かないひと。(法則)
でも、きっと、人が死んで泣くこともある。(例外)
泣かない、泣かない、泣かない、絶対に泣かない。あくまで泣かない。そういう話。
か、もしくは、
泣かない、泣かない、泣かないはず、絶対に泣かないはず、でも、泣いてしまう。そういう話。
わたしは漫画のことしか分からないんですけど、文化って、一人の天才が現われたら、新しいものが生まれたら、その後、衰退してしまうっていうのが、あると思うんですね。
大友克洋然り、鳥山明然り、高河ゆん然り、武内直子然り、安野モヨコ然り。(偏っててすみません)
何というか、そういう人って、その時代の法則と例外を捉えて、描いて見せてくれてるんだと、わたしは勝手に思ってるんですけど。
そこで、見せられた他の描き手は、つい、その例外ばっかりに目がいってしまう。
法則があって、その上での例外だからこそ見る者に迫ってくるのに、どうしてもそのインパクトだけを評価してしまう。そこにだけ飛びついてしまう。
その結果、何の芯もない、消費されるだけで何も残らないものが溢れかえる。
独楽は軸がないと回らないのに。凧だって糸がないと空高く上がっていかないのに。
法則とか例外とか、何においてのものでもいいんです。個人的には。
だからこそ、何を選べばいいのか、そこに今迷ってる気がします。
こういう話、他の描き手さんで分かってくれる人がいたらいいなあとか、思うんだけど、メールにせよ何にせよ個人にぶつけると迷惑な気がするので、そのために多分わたしはブログをやってるんだろうな。
あとは、物心ついたときからずっとしてきた日本語の練習の成果を披露するために。
俄かに自分の中でまとまったので、綴ってみました。
わたしも、人が死んだということでは泣かない人なんです。
それはちょっと違うか。
身内だとか、近しい人が死んだというだけでは泣けない人なんです。その死に様とか、生き様とか、それを思い返してやっと泣くんです。その人と自分との関係性は問題でなく。
それはもしかして、誰に対してでも同じように感情移入する練習をしてきたからかな? 遠い人こそその心持ちを考察すべき対象だと、そう思ってきたからかな?
他のみんなが充分悲しんでるから、自分まで泣く必要はないって思うせいかと思ってたけど。
本当に、人って死ぬんですよね。
人だけじゃないけど。
というわけで、しばらく実家に帰ります。