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不埒

まっすぐ立ってフラフラ歩きたい

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やめんかそれにはわけがあるんじゃ

大学のときしょっちゅう引っかかる問題があって、それはどうして人は他人の気持ちを考えないのかということなのですが、この場合の「考える」は「思いやる」という意味ではなく、「想像する」「仮説を立てる」という意味です。

当時私の周りにいた人間は何かにつけ、他人の言動に対し、「それは○○するべきだ」「どうして○○しないんだ」ということをよく言ったんですね。それは大抵その場にいない第三者に対する意見で、まあ今考えれば、大学生にありがちな根拠のない万能感と、モラトリアムで育んだ机上の空論意識のせいだとわかるのですが、当時の私は、どうしてよく知りもしない他人のことを「わたしのかんがえたさいきょうのせいろん」に嵌め込むんだろうと疑問を越えたストレスに感じていたわけです。
もちろん私だって、いかなる局面でも他人の心情や事情を想定したうえで行動できているわけではないし、まあこの人たちもたまたま今そうできていない時なのかもしれない。というあたりで当時の私は手を打った。もしくはこれまでの生育環境が違うから、私とこの人たちの想定できるパターンが異なっていて、そのせいで気になることが多いのかもしれない。というあたりを落としどころにしたのです。
しかし他人の言動の意図や行動原理に対しいちいち仮説を立てる方が変態的な行為ではないだろうかと、最近になってようやく思い当たったというお話。だってそんな不確かなものを、わざわざ想定するなんて単純に時間の無駄じゃないか。
じゃあなんで私はそういうことを考えて生きているのかというと、やめんかそれにはわけがあるんじゃ。
子供の頃から、周りの人間の行動の根拠が謎で仕方がなかったんじゃ。同年代の子供はもちろんじゃが、彼奴らはしょせん子供なので極めて利己的で浅はかな行動原理で生きておるのだと納得できるのじゃ。じゃが問題は大人なのじゃ。
とにかく子供の頃から大人が怒る理由、すなわち彼らの善悪の基準がどうしてもまっとうと思えず、深く深く悩んだ。そこで私がとった方法はというと、とにかく多くのパターンを覚えておいて、その法則を見つけ出すことでした。――というあたりから、自分の思考回路がずれていたことがわかった。当時の私にとって、そう、人間は謎のリモコンでした。中がどうなってるかはわからないけれどどのボタンで何が起こるか調べて対応していくしかないもの。
なんじゃそりゃ。しかもそれが高校数学を習ったあたりからグラフになるって、さらになんじゃそりゃ。
しかしこうやってですね、自分に対し客観的になってみると、わかることもあるのですよ。よって、自分にとっては無駄じゃない。そう、無駄じゃないのじゃ。

今になって改めてこんなことを考えたのはですね、お正月に久しぶりに会った旦那のお兄さんがですね、そういうとこがまるで大学生のままだったからです。エリートなのに…というかエリートだからこそか、大学の時の万能感をそのまま引きずってるんだなあ…と生暖かい気持ちになった。しかし理不尽に怒鳴られたので、このことは絶対許さん。

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