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不埒

まっすぐ立ってフラフラ歩きたい

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ここのとこのこと

この間、漫画のテーマについて考えてて、その後手塚治虫の漫画を読んで、そういえば最近の漫画って最後に主人公(級の人間)死なないなーと思った。それってテーマの質が変わったからかなーと。

漫画って、基本エンターテインメントだと言われればそうだとは思うけど、やっぱりテーマってあると思う。というか、テーマなしにひとつの話を描くって、できるものなの?
「人間とは/男とは/愛とはかくあるべき」という大仰で教訓的なものでなくても、「こういうことってあるよね?」っていう共感を求めるものや、「こういう考え方もあるんじゃないか」と一例を提示するもの、「こういうのが好き(萌える)んだよ!!」と自分の趣味・嗜好をごり押しするものまで、そういう、話を描く上での核になるもの、描く動機、それが、テーマだと思うんですね。そういうの全くなしに(誰かから与えられたり頼まれたりもせずに)ひとつの話を描くって、ほぼ不可能じゃないかと思うんだけど、どうなんだろう。
テーマって、話の核だと思う。その引力で、話全体がまとまるかどうか、見ごたえのあるものにまで成長できるかが決まってくると思う。あまりに引力ばっかり強すぎて、膨らむばっかりで纏まらないというのもあるだろうけど。まあそれは別問題として、ここではちょっとおいとこう。

それでね。昔の漫画って、「人生とは」みたいなテーマが根底にあったんじゃないかと思うんですね。昔って、かなり昔の話ですけど。まだマガジンが最強だった頃の話。かな。
「男の生き様とは」だったり「愛に生きる女の人生とは」であったりも含めて。人生・生き様について、「こうあるべき」というひとつの美学や道徳や信念みたいなものを、全体としては語ってあったような気がする。男はこうあるべきなんだよ!と、その強い生き様を描いたら、やはり最後はその死なくしては話に結論なり決着なりがつかないんじゃないだろうか。だって、人生を語ってるんだもんなあ。その結論て、やっぱりその最後に出すのが妥当でしょう。
ここまで読んで、なんか漠然とててわかりにくいなあと思った人は、あしたのジョーやタイガーマスクの最終回を検索でもしてみてくださると例としてわかりやすいかもと思います。いや、どうだろ。多分。そこから北斗の拳やジョジョ1部・2部までを一連の変化の流れとして見たら、何となくわかるんじゃないかな。どうかな。
主人公の死でその生き様というテーマに決着がついて話が終わっていた時代から、必ずしも主人公は死ななくていいようになるんですね。死ななくても消えてもよかったり(主人公が強すぎて死に方が想像出来ない場合とか)、もしくは1人目は死んだけどその次は死ななくてすんだり(一人目の死を生かす形)。その代わりに敵はきっちり葬り去ったり。

変わったからどうだとか、どっちがいいとか悪いとか言うわけじゃないです。
でも、なんか変わったなあと。そして今では、人生なんてテーマに置かなくていいんだなあと。死が遠くなったからかな?
でも、わたしがジョジョ2部と6部のラストが特に好きなのは、きっちりテーマや主人公たちの生き様に決着がついてるからだなと思いました。ジョセフが大好きというのもあるけども。大好きだけども。主人公が死ぬか死なないかが問題なわけじゃないけど、というか、死んだから決着ついたでしょ!みたいな終わらせ方は大嫌いだけど、でも、主人公の生き様に決着がつくって、ものすごく気持ちよくないですか?

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