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不埒

まっすぐ立ってフラフラ歩きたい

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人間の心がない

朝一番に 食卓について 息子を見るなり
「アデランスとか、CMしとるの、あれ、高いんかい」
ってしかめっ面で吐きつけるのを見て、この人、人の心がない…!と、思いましたとさ。

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高二病文章

自分は食べることが好きなんだと思ってたけど、確かにそれはそうなんだが逆もまたしかりだと気付いた。なーんて無理矢理わかりにくい高二病的文章を書いてしまうけど、つまりは食べないことも好きだということです。食べることほどではないけれど、たまには食べないこともいい。何がって、自分という存在が少しずつ削られるように消えていく感じが。なんて表現も高二病であることからもわかるように、私の本質が高二病なんだと思う。
おいしいものを食べることと、何もおいしく感じないときは何も食べないことは相反しない。

低血圧

身長が同じとか誕生日が同じとか別にいっこもくっつく理由じゃなくね?とか、歯が欠けてるだけで1時間妄想をしたためて剰え他人に送りつけた自分に言えることじゃなかったわ。ごめんなさい。
しかし相変わらず、キャラクターの誕生日には全く盛り上がれない自分がいます。ごめんなさい。自分や知り合いの記念日にもすごく無頓着なのでね。暦のペースに合わせて盛り上がることができない低血圧なのです。そう、何もかも低血圧のせい。
クエン酸と血圧は関係あるのかな。

早くも

タイに来て半年。
おばあちゃんが亡くなって1週間。
早いものだ。

何の前触れもなく、急死。ときましたか。

父親像

理想像ではなくて、個人的に父親というものに対して抱くイメージの話。血のつながった大人とそうでない大人というべきかな?
例えばトールズさんとアシェラッドとか、悟空とピッコロというのがすごくそれに当てはまるんですけど。血のつながった父親と、そうでない父親的存在。ちなみに後者が好き。
多分なんだけど、親って、どんなに立派な人物でも教育者としてはあまり役に立たないんじゃないだろうか。私の中に、他人の教えは糧になるという概念がある。父親って子供の前にあるものなんだろうけど、子供を振り返っちゃうと、その距離が近すぎて客観視ができないと思う。客観的にならずに他人に正しく何かを教えるのは無理だと思う。なぜなら、大抵の正解は解釈の一つ一つでしかないからです。にもかかわらず、その距離が近すぎるとその正解が絶対のものになってしまいがちです。だから、親の教えって視野が狭くて長期的には役に立たない。子供に対する思い込みも強いし。
そこでいてですね、血のつながらない父親ですよ。これはすっごく糧になる。無責任に立ちはだかる一つの正解。いや、正解か? と、疑ってみたり反発したり破ったり、何なら避けることもできる。という選択肢を知ることは当然できるし、それでも無視できずぶつかる、もしくは目指すなら、それこそが自分の道だという証左なわけで、子供自身が自分を客観的に見ることができる。そういうとこに成長があって、糧になる知識があると思うんですよねー。
これは兄でも教師でもなく、やはり父親像。前に立ちはだかる、何か。いつかは倒れ、超えてゆく何か。そういうのが父親という存在じゃないかなと思いますファザコンです。

月9面白いよね

って、終わったけど。1回しか見てないけど。
もともと水城せとなの恋愛観が好きなんですね、やっぱり。失恋ショコラティエは読んでないけど、まあやっぱり同棲愛ですね。あれ好き。何で他のは読む気にならないのかと思ったら、やっぱり恋愛のくっついたり離れたりを娯楽として楽しめないからだわ。同棲愛はあくまで総論・概論に終始していてすっきりしてるから好き。
まあそもそも、水城せとなの恋愛観が好きなんですよ。恋愛だって、野球や将棋と同じですよ。少なくとも「好かれたい」という目標があるのならば。目標のために努力し、結果的に秀でたものが勝ち取る。それだけのことだもの。媚びて策を弄して異性を落とす人間を悪く思う人は、じゃあ何? 昔の少女漫画みたいに、純粋な心で日々を過ごしていれば王子様がやってくるとでも思ってるのかな。もしかしたら来るのかもしれないけど。知らないけど。それはそれで悪いことじゃないけど。ていうか好きにすればいいけど。恋愛なんて、当人同士が好きにすればいいものだからさ。だからこそ、直接迷惑をかけられたのでもなければ、他人のやり方をとやかく言うことなんかないわけですよ。努力して才能がある人間が結果を得られるのは当然なのですよ。
個人的に理想の恋愛の形というのはあるけれど、それと総論・概論は別。水城せとなの恋愛論はいいなあ。

野菜事情

レンコンを買う夢を見た。そこまでレンコンを食べたいか。ああ食べたい。タイにはレンコンが売ってないのです。レンコンのきんぴら好きだし、てんぷらにはレンコンほしいし、鶏スープパスタにもレンコンとゆずこしょうでしょやっぱ。レンコン食べたい。
野菜売り場に玉ねぎないままで何日も放置できることも信じられんわ。玉ねぎってどこの国でも料理に頻出でしょうよ。
タイの店屋は総じて、欠品に対する意識が薄い。ネコの注射用の針を買うのにどれだけ店を回りどれだけ補充を待ったか。

タイ語を勉強していると、英語と中国語がどれだけすぐれた言語かよくわかる。意味のまとまり(単語とか)がはっきりわかるって大事ですね。わかるとこだけ拾って大体の意味とれるからね。英語はさすが契約社会の言語で、すべてを明確に叙述するし。
しかし不思議なのは、多くの言語で「行く」と「来る」を別にしていることです。この2つって、客観的には同じことじゃないですか。何かが、ある場所へ移動する。どちらもそのことを表す語。そしてこの二つを分かつのは、つまるところ主観だけでは? 客観的叙述を旨とする英語でも、単純で語彙の少ないというタイ語でもこの2つは分けられていて、すごく不思議だなーと思うのです。分けない言語もあるのかな?

あ…

あつい…ひたすら…。

休憩

確定申告は疲れる。ということがようやく私にもわかった。何かもうしんどい。間違えちゃいけないので詰まるたび国際電話で確認する。いろいろあってうちのはややこしい事例らしい。細かいことまで確認すると前に聞いたのと違う返事になるし。ああ、だからやっぱり逐一確認しなきゃ…。

ディオがポコのねーちゃんに、彼女を花に喩えて、君もこの美しい状態で永遠の時を生きてみないかと申し出たけど拒絶されて、そこで一気に、その花が枯れるじゃないですか。1部アニメ見てて、「最近漫画でこういう表現てないよな」って旦那に言ったところ、全く通じてなかった。インコみたいに首かしげた。
だからさ、少女の若さと美しさの喩えとしての花を枯らしたというのは、拒絶するならお前の運命もこうだ、という暗喩じゃないですか。って全く分かっておらずによくも、「最近の子供は全部言葉で説明せなわからへんから」なんて言えたものだな!

さあ、再開しよ。

会議

「ヒゲダンスはあの動き自体にヒゲ的要素はないんだから、何も知らない若い子が混乱しないように名前を変えるべきじゃないのか」
「今時誰もヒゲダンスしてないし蒸し返さんでええんちゃう」
ヒゲダンス会議終了! 先日の夫婦の会話!

本日の使えないタイ語講座。
チョークチャター・トラクーン・ナン・ジョージョー。(その血の運命、ジョジョ)

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