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不埒

まっすぐ立ってフラフラ歩きたい

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こわくない

平田弘史→怖くない(読む前は怖い)
COLDシリーズ→怖くない(極重なのに何度も聴きたくなる)
ももち麗子→怖い!(ハッピーエンドが怖すぎる!)

なんだろーなーこの基準。
COLDシリーズは買う気満々なんだけど今後特典が復活するかもしれないと思うと二の足を踏んでしまう。もういっそ、今特典無しでも買って特典が復活したら買いなおせばいいか? それでいいか? こんな重いのに何度でも聴きたくなるし、聴き終わった時に大泣きした後のような喪失感に似た爽快感がある。もう買っちゃおうかなー。日本に帰るタイミングで買うべきだよなー。

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落ちたダーツがハートに刺さる

2期の、レン様が実家について話をしつつ手持ち無沙汰にダーツを投げるシーンが好き。神宮寺財閥の跡取りとなる長男に命じられて音楽の道に進んだと話すレン様。「財閥に必要なのは次男までで、三男のオレはオマケみたいなもんさ」と言って投げた3本目のダーツが、先に刺さっていた2本にはじかれて落ちる。そこで小さく舌打ちするレン様。いつだって何でも涼しい顔でこなしてつかみどころのない彼が珍しく苛立ちを見せるシーン。
最近かなり、演出重視で見ているなあと思います。ディオがポコのねーちゃんを薔薇の花に喩えた後、反抗されてそのバラを枯らすとか、間接的に語ってこその物語ではないかと思うのですよ。物語にとって意味があることはテーマと、それを引き立てるリアリティではないでしょーか。別にテーマは斬新なものでなくてもいいんだ。いつだって大事なことはとても普通のことで、どうしても見失いがちなそれを、いかに強く意識させるかに作品の出来はかかっていると思うから。
ダーツの片手間に話すことで大した話じゃなさそうに見せて、且つ、聞いている聖川と目を合わせず話せる。本心を悟られないようにしているのが見て取れる。3本のダーツはもちろん3人兄弟の暗喩で、2本にはじかれる3本目に自分を重ね、柄にもない舌打ちをしてしまう姿が、普段の飄々としたスタイルの裏側にあるわだかまりを垣間見せるわけですね。本当に、なんて秀逸な演出なのかと!

ォォォォォォォォォォ!?

ちょっと気になって銀魂のウィキペディア読んだら、知らない情報ばっかりなんですけどォォォォォォォォォォ!?(←語尾オマージュ)
腐女子(女オタ?)は銀魂が好きすぎてしゃべり方を真似してると思ってる輩が多いようだけど、逆だよね。心の中にあったけど形になってなかったものを表現してくれたから銀魂が好きなんだよね。だから真似するんだよね。

見続けて

弱虫ペダル公式(アニメ)を見るにつれてNGカプが増えています。公式未読未視聴段階では完全雑食だったのに。しかしアニメを見なければこんなに真波を好きになることもなかったであろう…。しかし見進めると、こいつもこいつもこいつも受け受けしすぎて受けにならない…とか、この子とこの子が性的になんて…とか…。
同様に、とも言い切れないけど、ダイヤのAもカプは切り離したいというか、あれだけ野球で忙しい子たちでしかも屈折のない子たちで、いちゃついてる暇はないだろう…。そういうのあったら間違いなくチームに支障きたすだろう…みたいなスタンスでいます。自分の萌えと合う合わないでなく、三井木暮とかはまあまだわかるのよ。ちょっとそういう屈折があるというか。でもダイヤの子たちはなあ。特に御幸周辺はなあ。
うたプリはあの過剰な演出とナギの性格の悪さがクセになる…。公式とかにお金を落とすことはないだろうけど、結構何回も放送を見返したりしてます。やってるたびに見そう。
ジョジョは4部もやってくれないかな…。水垢離とかすればいいかな…。いや、円板買うのが一番いいのはわかってるけど、でも4部は円盤出たら買いかねないよほんと。どうせ6部はアニメ化しないだろうし…。

○○○

「取手君は明るくて優しくて、僕の自慢の○○○だった!」
「『おまえみたいなへなちょこ、おれの○○○じゃねえ』って怒られる…」
「今は、大切な同居人だと思っている。正直言って、かわいくてたまらない…」
「互いに、互いのものに責任を持つ。たとえそれが悲しい習慣だとしても…」
すごく素敵な、強い絆を感じられる台詞だと思うんです…これが…○○○の話でなければ! というか○○○ってメガネを落とすんですか?
ほんとに素敵なるーみっくBLです。これの場合ホモがではなく○○○に人格があるということがるーみっく要素という斜め上かどうかも分からないはるか上空大気圏外の話なんだけど。

また検索

見ててあまりに腹立って、「ヒルルク/身勝手」、「ヒルルク/独り善がり」、「ヒルルク/バカ」で三連検索してしまったが、どうやらインターネッツには同志はいないようでした…。言うべきこともするべきことも何ひとつせずに自分の美学だけに忠実に生きてそりゃいい人生だろうよ! お前が全部黙って背負い込むことで誰か救われたの? 自分が楽しただけやん。面倒くさい恨まれ役、チョッパーに悲しい顔させる役をぜーんぶ放棄して出来もしない治療をしに乗り込んで…ああツッコミが追いつかん…。なんかもうほんと…胸糞悪い話だったわ。クズ父だけど悪気がないせいで離れられない子供のかわいそうな話…としか。

水!城!せと!な!

中学の時。「あいつ(新卒の男性教師)変態やで! 森高千里のどこが好きなんか聞いたら、『脚』やって!」
高校の時。「あの子最低やで! 女の子のこと顔で選ぶんやで!?」
高校出てから。「中居君(SMAPのね)は自分のこと好きな子が好きなんやで!?(だから恋愛観が最悪)」
単に私の周りにこういう(我田引水的な?)女が多かっただけかもしれないけど、女像として私は大体こういう人種を想定してしまっている。でも多分恋愛漫画を読む層は大体こういうのじゃないの…? フィクションに自分の願望を求めるのはわかる。だから女に甘い話が受けるのもわかる…んだけど、恋愛は女の幸福製造並びに継続システムだと「本気で」思ってる層が読んでそうでイライラクラクラするんだよ!
いやいやいやいや。あれだけ脚アピールで売ってる芸能人を脚で好きになって訊かれたから答えてそれの何が悪いのか。お前はじゃあ男を顔で選ばないのか。自分のこと好きになってくれる子を好きになれるならなにそれ超ハッピーなシステムじゃん誰も傷つかないじゃん。なんで女ってそういうこと正しいと思い込んで発言するんだろう? 本当にさ、顔や体で好かれることの何が気に入らないのかっていうさ。いや、気に入らないというのは人それぞれだからまあいいんだけど、あのいや自分はそういうとこで好きになったりしますよね? 好き好き言われたり褒めちぎられたりしてつい好きになっちゃうことだってありますよね? そのくせ男がそうだとなんで悪いのか…? ほんとこういう女の主張はまともに聞いたら眩暈がする…。
そんな私の気付け薬が、そう、水城せとなの恋愛論だ。末法の世に正法を見たってきっとこういうこと。よかった…この水…飲める…みたいな。
いや、そもそもさ、恋愛という個人的な情動に正しいとか間違ってるとかないじゃん。少なくともあんたらがやってる範囲ではさ。なのになんで人の恋愛を普通に批判するのさ?
顔や体で選ばれるのは心外だ(本人のこと)→わかる
顔や体で選ぶなんて最低!(他人のこと)→お 前 が 言 う な
公共の場でいちゃつかれると迷惑(公のこと)→わかる
好きでもない人といちゃつくなんて!(個人的なこと)→お 前 が 言 う な
こういう当然のことをすっきり描いてくれる。
そうだなー。本当に純粋に理想の恋愛というなら、私は大学教授に片想いしたかったわ。ほんっとうに何も望まずに、ただただ好きでいるような恋愛をしたかった。現実にはそんな才能がまずなかったけど。
でも別に水城せとながそういう恋愛ものを描いてくれるわけではなくて。理想はあるよね、思うのは自由だし誰に否定されるものでもない。ただそこから生まれる欲を実現させる過程では許されることと許されないことがあるよ、と。許されようと許されまいと欲しいものは手に入れるという道は確かにあるけど、それは肯定されるものではない。しかし恋愛なんか、元々肯定も否定もされるものではない。その上で、じゃあどうするの? ということを描いている(のだと思う)。まったくもってその通りだと思います。

あとそういえば中学の時に、「3人兄弟いうことは、親は3回はヤッたいうことや」ってニヤニヤしてる男子もいたな…。何わかりきったことを…ていうか夫婦で3回やってたからってだからってだからって何? と思ってました当時。が、そういう割り切りも思春期にしては性に対する垣根が低すぎて駄目なんですかね?

承前

デビルマン+ドラえもん=寄生獣

寄生獣とネウロと進撃の巨人はなんか似てる気がして、それは絵が下手なのに表すべきことは書き表せているというところかと思ってたんですが、そうでなくてその「表現すべき部分」なのだと分かった。人でない「亜種」のその生理的な気持悪さ。受け入れ難さ。そういうものを描いた作品として共通点があるのだと分かった。そして私はそういう作品が好きなのだ。それ、絶対それ違うものだよね一つだけ。と、感じることが自分にはよくあって、その感覚を描いてくれている感じがぞくぞくした。
ハンターハンターも面白いと思ったのはキメラアント編だった。だから結局は同じですね。人と化け物を分けるものは何か。どこで線を引くのか。そういう話だった。そして、それは種別だけで分けられるものではないのだと。本当の意味での「人間性」というものの存在を、その在り処を、変化とまじりあいを。
個人的にはさー、世間で言われる人間らしさがただの非合理性であるのがすごく釈然としない。非合理性は副産物でしょう。大脳が発達した結果の副産物。そもそも大脳の発達は、進化と進歩のためにある。非合理性はそれを妨げる副産物。あえていうなら、その副産物をどうしていくのかという業が人間性だと思う。そういう形での解答を上記の作品は出してくれてると思うんだよね。人間性は「ホモサピエンスであること」でも「情と呼ばれる非合理性」でもなく、「非合理性を孕みつつ生きていく姿」である。みたいな。いや、進撃は読んでないからわかんないけど。

壁の話

ふと、だけど。もし自分が進撃二次やるとしたら、壁の話を描くなと思った。というかあれは、壁の話だよねえ。内と外を分けるそれって何かって話。人と巨人、に見せかけて、本当に壁が隔てるのはそれなのか? 例えばミカサは、自分とエレンとそれ以外で分けているけど、エレンにとってはアルミンも内であることをわかっているし、組織に入って多くの人間と関わる中でも彼女が考えるのは「自分たち」という内側の平穏であり、それをかき乱すリヴァイなんかには毛を逆立てて威嚇するわけだ。というわけで私にはあれはミカサの話に見える。アルミンから見たエレンを見るミカサの話。
原作を読んでないのでわからないんですけど、そのミカサにとっての「壁」は壊される方向に向かうんですかね? 壁をぶっ壊したいエレン(思春期)。ミカサはそれを制止したいんだという描写が随所にあって、意外とこれは封建的で原初的な男女関係だ。生まれ育った狭いコミュニティで番になってまたそれを紡ぐという安定を求める女と、年ごろになるともっと広い世界に漕ぎ出したい衝動に駆られる男。そう考えると、ミカサの方からその壁を壊す展開がやってくるべき…? そのあと元の鞘に収まるとしても。
そう、壁が隔てるのは、「自分たち」と「敵」だ。

甲斐

反逆のルルーシュをR2まで見切った。見た甲斐があった! おそらくそうなるであろうというラストにしっかり起伏をつけてたどり着いてくれた。
逆に最後まで見て損したと思ったのは1位悪人、2位ジャンゴー繋がれざる者―。ああいうのって面白そうに見せかけてしかも時間が2時間以上あったりするのでタチが悪いわ。もうほんとにこの2作だけは、見る甲斐がないということを世の中に広めていこうと思う。
ところで「甲斐」って、なんで「甲斐」っていうんだろうね? 旧国名でもあるわけだよね? 「伊達」は伊達正宗が伊達男だったかららしいけど、甲斐はなんでかな?

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調べた! へ~~~~~~~~~~!

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