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何となく何だけど、私のことを怖いとか、怒りづらいとか意見しづらいとか、そういう風に思う人って、「バカだと思われたくない」人じゃないかと思う。そういう人って必ずといっていいほど、私のことを頭いいって言うんだよね。それも、そういう気持ちの裏返しかなと。私っていかにも、他人のことバカだと思ってそうだもんな。些細なことでそう判断しそう。わかるよ。口を閉じて、たまに相手の目をまっすぐ見て目を逸らし、ふーんて感じで話し聞いてると、何となくそういう雰囲気を醸し出す。
前に国語の問題文で、「嫌いというのは自己投影である」ということが書いてあって、なるほどと思った。
相手を嫌うことは自己投影に起因する。自分が表に出さないでいる影の部分、その影を他人に見たとき、人間はその相手を嫌う。「男に媚びてばっかり!」なんて同級生に腹を立てる女は、自分自身の媚びたい気持ちをプライドなり美学なりで抑えているか、媚びても上手くいかないことばかりか、まあ、おそらく概ねそのようなものだということ。「自己投影」とはあくまで投「影」であって、自分そのものではなく自分の影を他人に見ることなのだ。そしてそれによって、人は他人を嫌うのだ。
国語の問題文は結構ためになるなあ。
しかし小学6年生に、「言語の存在の第一義は概念化にある」なんて文章を読み解かせるのはどうかと思う。どうかと思うぞ!
引き続きバガボンドを見ています。14巻からまた面白くなってきた。バガボンドって、時代劇だと思って読んだらダメだ。あれは、井上雄彦の漫画。井上雄彦の作品。ただそれだけ。そういうジャンル。
ジョジョのアニメも、あれはアニメではなく、「ジョジョ」です。そういう文化。ああ、確かにジョジョってそうだ。再現性がすごい。声優さんの台詞の抑揚もイメージどおり。「何をする(ん)だーっ」が、確かに「何をする(ん)だーっ」だった。この21世紀日本作のアニメだと思うとあまりに絵がひどいのですが、確かに、ああ、ジョジョ1部はそうだった。そのものだ。
ところで私はよしながふみが嫌いだけど、BL(二次創作含む女性向けホモ)好きで且つよしながふみを理解しない人間て下らないとも思う。語るに落ちるというか。
相棒は結局、新相棒に愛着もてるまでは伊丹さんとか米沢さん出しとけば外れはないんだ。でしょ? あと、内村刑事部長。あの何ひとついいことをしないとこがたまらなく好きです。ダンナも好きらしい。伊丹さんの次に。
しかしあの(刑事部長の)俳優さん、かつてはアクション俳優だったんですってね! 松田優作とかと刑事ドラマで暴れまくってたとか。芸名かっこいいもんな。片桐竜次って。しかしですね、そんな過去を知っちゃうと、もしかして今後相棒でもアクション見せてくれたりしたら、人気がうなぎのぼりなんじゃないのか! そんな展開もあったりしちゃうのか!とか、変に期待しちゃったりしますね。
他には、理由(宮部みゆき)見た。淡々とした演出なのに引き込まれた。気になって最後まで退屈せずに見てしまった。
重力ピエロも見た。小日向文世さんの役が素敵だった。かつ、加瀬亮と岡田将生は男前でした。話は、まあ。
半落ちは、今見てるけど、伊原さんと柴田恭兵がひたすらかっこいいだけで今のところあんまり面白くない。
アンチなので、まあ手を変え品を変え批判しかしないといわれればそのとおりですが、そう、ワ☆ンピ☆ース。
たとえばドラゴンボールって、大人になってから見たら感じ方が変わるっていうじゃないですか。確かにそうだと思う。だって、ちゃんと大人が大人の目線で世界を理解して描いてる(多分ね)から。
それがいいかどうかは個人の価値観ですが、私はそういう作品のほうが深いと思ってて、やっぱりすごいなと感動しちゃうわけです。そういう描き方に。ドラゴンボールに限らず、結構昔の漫画ってそうなんですよね。子供が理解できる内容だけで構成されていない。だから、大人になってから読み返すと新しい発見や感動がある。そしてわたしはそういう作品に価値を感じる。
じゃあ、今の人気漫画ってどうだろうか。っていうと、そうじゃないんじゃないだろうか。という話。読んでるときはそれなりに楽しめても何も残らないのは、私がいい年だからということと、大人らしい大人が存在しない世界の話であることのせいだと思う。大人になり方がまず描かれていない。子供に対する大人の役目、大人のかっこよさ、責任・義務、など。終わらない夏休みみたいな漫画ばっかりなんだよなあ。
そういえば私は途中までNARUTO大好きだったんですが、元々ハマッたのって、自来也がナルトに修行つけてるとこからなんですよね。あの大人像がかっこよすぎて理想で、1巻から読んでみたら大人たちがちゃんと大人! なのに今ではその大人たちが、自分しか見えてない子供たちに世界とかそういう大きなものを早くも託そうとしてるから・・・。エエエエエエエ・・・みたいな。すっごい脱力。
今の時代、子供の世界でしか通用しない生き方しか描かれてない漫画が多すぎる気がする。自己実現しか考えずに社会に出てしまっていいのか。いや、だから社会に出ずに済まそうとしてるのか。それとも社会では否応なくあれもこれも考えざるを得ない状況だからこそ漫画では煩わしさから開放されたいのか? ある意味癒し目的?
そういう内容に不満があるなら青年漫画でも読めばいいんだろうけど、恐ろしいことに今の時代、少年向け以外でもそうなんだよな・・・。とにかく甘い。子供やオタクや落伍者に。大多数の弱者に。
私は、強者の理屈で世界は回っているけど弱者だって否定されても生きてる、みたいな作品が好きです。弱者はさ、肯定されちゃ駄目なのよ。否定されても生きるってくらいじゃないと。と、思うのですが、どうやら今では世の中はそうではないようですね。
マクロス。見たけど。
なんの哲学もない人間の作ったアニメだな。多分テーマは愛ってことにしてるつもりなんだろうけど、あんなん愛じゃないだろ。そんな崇高なものではなく、月九や大学生サークルに溢れてるような卑近な色恋沙汰やんけ! イッチャイッチャグッチャグッチャしやがって!
とりあえず、オタク学生だって彼女が欲しい!ってとこまで理解した。ヤマトとかガンダムとかカッケー!だけどアイドルや同じクラスのかわいいあの子とつきあいてえ!って、ただの欲望垂れ流しやんけ。
しかし最後あの歌でなんとなく世界が愛によって救われたような気にされてしまうので、すごいもんですな。あの歌はすごい。売れたものにはやっぱ理由があるのねー。
引き続き、バガボンドを読んでいます。現在、13巻まで。
これって、自分探しの話ですよね。みんな自分を探してる。自分という存在の根拠を。それはすなわち、父親探しでもある。
という話ですよね。まとめると。
そういう人生観自体は、普遍的なテーマになり得るし、好きです。
が、そうなるとヴィンランドサガと比べてしまいますね。すると、ヴィンランドサガの方がそのテーマに対するアプローチが多角的で、論に説得力のあるエンターテインメントとして成り立っている。
最後のマンガ展を見たとき、井上雄彦の漫画は川のようだと思った。自然な流れをそのまま描いている。生まれたときに決まっている死ぬまでのひととおりの人生を。運命論とは違うんだけど、落とした石がそこからどのように転がってどこで止まるのかというのと同じく、この世に何らかのエネルギーを持って生れ落ちた瞬間から、その地点から、その後どちらへどう進みどこまでいけるのかは決まっている。その、もっとも自然な形。それをただ描いている。
であれば、その物語は最終地点までの道のりはひとつであり、もし複数の道を描くのであればそれは、それぞれの道でしかない。それぞれが求めるもの、目指すもの、旅立つ地点が違うがゆえに生じるいくつもの道すじ。そのそれぞれを描くのであって、一つの何かに向かってそれぞれの価値観で何通りもの答えを出すものではない。
つまりどういうことかというと、ちょっと飽きた。道はひとつだからこそ道なのでは。
「筋肉奇譚」 (田亀源五郎/OKS)
「おでんぐつぐつ」目当てで・・・・・・。
私がホモを描いてほしい漫画家というのがいて、2人いて、それが男性作家さんで、朝☆基☆ま☆さ☆し先生と平☆田☆弘☆史氏で。作家さんのファンの方の検索に引っかかると嫌なので避けますけど。朝☆基☆ま☆さ☆し先生はサ☆イコ☆メ☆トラ☆ーでたまに不意打ちでホモ的な台詞とかをぶっこんでこられて、その度息が止まるほど燃え転がっているんですけど、そのタイミングとバランスがモノスゴクイイのは確かにそうなんですけど、何かちょっとそれでもたまにモノスゴク欠乏症みたいになったりとかして、平☆田☆弘☆史氏のは何ていうかこうあの何て言いますかあのほら何とも言えないもうアレナンデスケド、ああ、ホモ描いてくれないかなあああああ!!!! と、絶叫しそうなのを抑えている状態なんですよもうこれねえほんともう。
で、そのお二方が描かれるホモ(描いてない)に近いんじゃないかなんて思ったりしちゃったりで買っちゃったりというのが、この本なんですけど、うん、別にそんなことなかったよ・・・全然別物だったよ・・・・・・。むちゃくちゃ絵の上手いゲイの描いたゲイ本だったよ。いや、まあそういうことでいいんだけど。
ああ、どこかに、完璧なノンケ(むしろ女好き)の男性が描いた絵の上手いホモ漫画はないだろうか。
しかし、バガボンドと寄生獣も読んでおいて、なんで感想描くのがエロ本2冊かなあ?
「キャノン先生トばしすぎ」 (ゴージャス宝田/OKS)
大人気ロリコンエロ漫画家巨砲キャノンの正体は12歳の美少女! 育ちのいいお嬢様! 普段は礼儀正しく聡明でしっかり者のキャノン先生が、30歳にしてエロ漫画家としても鳴かず飛ばずの主人公をアシスタントとして熱望し、二人っきりの部屋ではエロエロ全開のキャノン先生とセックスはもちろん変態プレイしまくりの日々! ・・・という漫画です。
頭を使って描いてる人だなあと思った。溢れ出す情熱の手綱をちゃんととって描いている。熱のこもったエロ漫画学であり論。そして道。その芯にあるのはロリコンリビドーなので、頭でっかちに感じることもないギリギリのバランスを保って、おそらく実用性のあるエロ漫画として成立しているんだろうな。
この作者は間違いなく骨の髄からロリコンのド変態なんだけど、いわゆる(なのか?)非力でか弱いものを人形のように弄繰り回す的な嗜好ではなくて、少女に母性を感じてる、というか、信じてる。インタビューでも熱く語ってらしたけど、少女は全然弱くなんかないと。みんな自分より強くて、可能性に溢れてて、そこに強く惹かれてやまないのだと。その論には、ものすごく共感して、軽く感動した。すべての少女がそうであるわけはもちろんないけれど、少女の魅力というのはきっと一番はそれなんだ。大人よりもはるかに大きな可能性を内包していて、既に母性も知っている。成熟していないからこそ無限大に広がりうる包容力。みたいなもの、なんじゃないかな。多分、作者が愛するのは。
つってもまあ、結局はロリコンによるロリコンのためのロリコン漫画なんだけど。まあ8割方のページが、何の取り柄もない(といっても客観的には何ら差し支えのない)30男と、H大好き12歳ド変態美少女天才ロリコン漫画家の濃厚性交シーンであるわけだし。なんていうかもうね! お前夢見すぎだよ!!!!とね! 何でそんな才能溢れる美少女がお前の変態的なこだわりを理解してくれてかつそのはるか上をいくド変態でお前にセックスや変態プレイをねだるんだよ!! あまつさえ強要するんだよ!! と、つっこみたいのももっとも。でもまあ、そこは趣味の世界なので、そんなつっこみが無粋なのも言うまでもない。結局はヌくための漫画だからね。
しかし実際、この巨砲キャノン先生は非常に魅力的な少女である。私もロリコンだからかもしれないが。いや、でも当然だけど、別に私は、自分にあれこれいやらしいことをしてくれるから好きなわけじゃないよ。してもらってねーし。していらんし。ド変態だけど屋外でのあるプレイに、「謝って済むプレイと済まないプレイがあります!!」と主人公を叱りつけるキャノン先生は凛々しい。それが12歳の少女というのが眩しい。且つ、謝って済まない理由が、「心の準備というものがあります!」で、「心の準備があれば・・・」「OKです!!」と迷いなく即答するキャノン先生は逞しい。そして頼もしい。
そんな彼女の一番の見せ場は、エロ漫画家としてのプロ意識を主人公に語り聞かせるシーン。「時間があればもっといい台詞だって浮かぶし最高の絵を入れられるし傑作を仕上げられる。でも、私たちの仕事はそうじゃない。〆切までに何としてでも原稿を完成させること。そこで後悔は絶対に残るけれど、それは次の作品にぶつけて成長していくしかない」と。これが12歳の言葉ですよ! 漫画だけど! エロ漫画だけど!
というわけで、やはりある程度はロリコンの気のある人にしか薦められない漫画です。ノリノリエロエロの強気少女が好きな人でなければまずダメかも。もしくは幼女との変態プレイでヌけるか。
私はこの作家さんはエロシーン以外のためだけに買って値段分泣けるので、良し!!
今更旦那がじゃりン子チエにはまり、ちょこちょこ見てる。お前何年関西人やってたのかと。関西人じゃなくて京都人だとか・・・まあ、お前らはそういうけどさ。高畑勲の最高傑作は、火垂るの墓じゃなくてじゃりン子チエでしょうよ。ジブリをほぼ見てない私が絶賛するんだぜ。
なんてことは今回の本題ではなくて。
今更、ですが、バガボンドを読み進めています。
あまりに今更なので、既に皆さんが粗方書くべき感想はあちらこちらに連ねていらっしゃるので、いいとして。
岡山かあ。岡山ねえ。みたいな。
私が物心ついてから10代までを過ごしたのが作州の近くといえば近くで、あの辺といえば、宮本武蔵以外では八つ墓村の津山30人殺しですね。なんていうか、確かになんとなくそういう土地なんだ。そこだけで完結しているというか。美作なんて地名のとおり豊饒な土地で気候は穏やかで、出て行く必要性を感じることがない。しかし、それゆえの閉塞感もある。しかし、それも出奔に到るほどではない。そこで生まれたら土地に縛られる感覚のある土地。そんなところから、あえて天下無双を目指して武者修行に出るって、どうにも噛み合わない。
例えば薩摩であったなら、歴史的な徳川の中央集権との確執があり、長く虐げられ、痩せた土地での貧しい暮らしの中で鬱憤は溜まりに溜まって(以上、平田弘史著「薩摩義士伝」からの完全受け売り)、そこからの山師的な成り上がり根性というのは非常に腑に落ちるんだけど。
まあ別に漫画だし、史実でもそうだったっていうならそうだってことなんだけど。これは描写とかストーリーテリングの問題ではなくて、私の読み方と楽しみ方の問題で、史実だからこそ、実感として腑に落ちる感がほしいんですね。腑に落ちるように描いてほしいっていうのではなくて、この作品から事実を想像して実感を得たい。という方向です。何となく自然に今のところ。
もひとつ思ったのは、井上雄彦の各キャラクターって、みんな目が澄んでますね。瞳が。それもキャラクターの魅力だろうな。
そして、井上雄彦ってこういう女が好きなんだなあと。それは非常によくわかった。
ちなみに今更なのは、立ち読みで第1話に入り込めなかったせいと、第1巻の表紙が何かしまりがなくて嫌だったせいです。あの1巻の表紙何か嫌。落ち着きの悪い気持ち悪さがある。って思うのは自分だけか?
攻めを蛇で、受けをキノコで描写するってどうだ。
どうだ?
最近BLの波がやってきた。というか、自分の中で空前の個性的エロ漫画ブーム。
そういえば何年か前には、こんなこと書いてたな、自分。進歩してねえ。というか、一巡した?
「敵だったキャラが仲間になる」という展開も確かに熱いが、「嫌いだったキャラを好きになれる」の方が、より幸せじゃないだろうか。
上手いストーリーテリングって、そういうものじゃないかと思う。気持ちを振り回されるもの。そして、最終的には読んでよかったなあって思えるもの。物語に入り込むって、特に漫画の場合はキャラを身近に感じるってことで、好きになれたら一番いい。展開や叙述に振り回されて最終的に全部のキャラを好きになれるって、読後感が最高に幸せだよなあと思った。
たとえば私はジョジョ2部が大好きなんですが、あの部はまさにそれ。シュトロハイムだってワムウだってエシディシだって登場時はすっごい邪魔で結構やな奴なんだけど、最終的にはみんな好きになれる。ジョセフがひとつひとつ肯定してくれるから。そして最近寄生獣の完全版を買って読み直したんですが、田村玲子もいい。彼女についてはもうちょっと長く別の記事で語りますけど。あとは、自分的には多重人格探偵サイコの笹山も弖虎もそうだ。医龍も殆どのキャラクターがそうだった。
何というか、そういうのがいい。この辺いつもどおり深く掘り下げてみようかと思ったけど必要ないなと思ったのでこの話はここまで。でも、いいよねえ。よくない?
で、最後にちょっと自分用ブクマ。
鳥山明の最初期インタビュー(スターログ1980年11月号、インタビュアーは高千穂遙) http://d.hatena.ne.jp/soorce/20081109/p1
ずっと前に読んだんだけどまた見つかってよかったー。おいとこ。