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オリンピック開催地、リオに決まりましたね。東京落選ですね。
東京の企画って、多分よくできたんだと思うんだけど、それって日本人の価値観での話なんじゃないかなあと思います。
IOCって、オリンピックのことばっか考えてる人からしたら、4年に1度の祭りなんだから派手にやろうぜ!!てなもんじゃないでしょうか。効率がどうのとか環境がどうのとか、ちまちましたことやってられっか!っていうね。
オリンピックだぜ~~~!!っていう感じが欲しかったんじゃないでしょうか。お祭り感。
最近心動かされた言葉。
「やさしさは、根性です」
まったくもってそのとおり。
「天井は意外に低くて染みがある」 (←大人になってわかったこと)
秀逸な隠喩。そうなんだよなあ。
「久保帯人は、『ぼくの考えた〇〇』を全部入れてくる」
なんて的確な指摘・・・。これ以上に端的に的確に表せる人がいるのだろうか・・・。
「J‐POPと歌謡曲は、ブログと映画くらいの差がある」
ほんとにな! 誰にでもある個人的な感情や日常なんか、何でわざわざ聞きたいの?
しかも、歌詞だってその感情や日常をただ書いただけだもんなあ。同質な人間に対してのみ発信してるから、特別伝える努力とかしてないんだろうな。
ちょっと前に、「漫画絵は存在感と説得力」って書いたんですが、別に漫画絵だけの話じゃなかった。
わたし、ほぼ全ての物事において、存在感と説得力を価値基準にしてます。
漫画絵で存在感と説得力を出そうとすると、色使いやデッサン力より構図や表情。っていうのが正しいですね。わたしの考え方を言うと。
だからJ-POPは基本好きじゃない。
ついでにいうと、どろろとかあずみとかカムイ伝とか映画にするのって頭おかしいと思う。
ああいう陰惨な話を、画面映えに重点置いて映画化するって、バカにしてんのか? 美男美女のカッコよさげなシーン撮りたいだけなら、イメージビデオでも撮ってろ。
陰惨な話に説得力出せるくらいの役者を揃えろ。見た目だけで起用するから、主人公が不幸だけどかっこいいだけのオチのない話になるんだよ。
妻夫木聡も上戸彩も松山ケンイチも、わたしは好きだよ。松山ケンイチの使われ方には否定コメントしかできないけど。
ちゃんと実力派の役者さんでで脇を固めて、見た目だけじゃなく演技で表現してくれよ・・・。ただ主人公だけがカッコいい話じゃなくてさあ。ほんとそれなら、話なんていらないじゃん。イメージビデオで(以下略)。
もう、あれかね。みんな、自分のことしか考えられなくなってんのかね?
だから主人公に感情移入して、主人公さえカッコよければいいのかね?
二次創作はそういう楽しみなんだなと理解したけど、プロの仕事としてそれってお粗末過ぎるでしょう。消費上等!って考えなのかな。
tgrさんへ
返信を読んで、話したいことがありすぎて、ほんとにありすぎて、返信できません。
もうぶんしょうなんかでつたえられない・・・。
しかしひとことだけ・・・
わたしを褒めるな――――!!!
あまりにあちこちでいろんな名前を名乗りすぎて、メールとか送るときに「この人には何で通るんだっけ・・・」みたいに悩むことが最近多いです。
もう、「埒」か本名以外では返事しないようにしてやろうか・・・!
うん、ごめんなさい。自業自得ですよね。
某有名漫画家さんの絵のことで、「色使いとか、ほんとにすごいじゃないですか」って話を振られて、わたしはそれを否定する形で返してしまったことがあって。
それは、否定ってか、「そこ?」って感じだったんですよね。
みんなァー、聞いてくれ――!!
ダンナが
いつもは読まないバクマンのブラジャーのコマだけ凝視してたよ!!
まさに、あの編集さんの言ってたとおりじゃないか! 蒼樹紅の新担当さん!
「恋愛ものに毎週3コマ下着のシーンを入れる」って・・・。それで人気出るよ確かにうん。
ていうかいい年してそんなんに引っかかってるダンナにびっくりだわ・・・。
ちなみに、ブラジャーのコマから一気にぬらりひょんまでワープしてました。
そういえばぬらりひょんも、最初の読みきりのときブラジャーでてたよね。例によってダンナはもちろんそこに反応してましたけど。
「ドMだけど心はピュア」って自称はそういうことか、おい。
妹にジョジョ読ませたらきっと、好きになるのは承太郎かジョルノなんだろうな~。
いって仗助・・・いや、ないな。多分ない。
あいつはスラムダンクでは迷わず流川、銀魂見せたら総悟って言いやがったからな。
「人によってはミドレンジャーともとれる青レンジャーだが芯は赤レンジャー」みたいな男が好きらしいです。
つまり、個性的な自分の世界を持ちつつ(ミドレンジャー)、基本クールに何でもこなし(青レンジャー)、それでいて本質は情熱家(赤レンジャー)・・・みたいな。
何て贅沢な好みなんだ・・・。何でそんな欲に正直なの? ヒーローとして欠陥がないよね。ヒーロー5人組のうち3人の要素持ってるってさ。しかも残りの2人って、デブとヒロインだよ? 実質全部じゃねーか。
妹の男の好みって、ものすごくメスだなあと感じます。健康なメスが求めるオス。優れた遺伝子を残すための選別。
こういう人間は、好きな人=結婚したい人 なんだろうなー。
まあ、どうせ、妹はジョジョ読まないだろうけどね。
1部2部の汗臭さとかダメだろうし、3部の少年漫画展開も興味ないだろう。内容的には4部が一番いけそうだけど、そこまで好きになれるキャラがいないと早々に挫折しそうだしな~。急に5部からってのも無茶だよね。
そういえば妹がピストルズのストラップを作ってくれるというので、5部の2巻(文庫)を貸したんですが、何故か例のアバ茶のシーンにまず興味持ってました。
うーん。男漫画慣れしてない人間の感覚はわからん。確かに奇異なシーンではあるけど。
ところでピストルズのストラップって欲しくないですか。
6人群れになってて、ジャラジャラしたらハイタッチするみたいなやつ。欲しいよ!
あいつ6体作ってくれるって言っといて、「ムキムキやから無理」とか言い出しやがって・・・。
こないだ、「公園でザリガニにチンコ挟ませてたら通報された」(←うろ覚え)というスレを見てて、スレ主(通報され主)の
「俺は自分を戒めないとダメになってしまいそうだから週2でザリガニに(以下略)」(←うろ覚え)
という書き込みに、何だかものすごく共感しました。
「戒めずにやっていける社会人はすごい」(←うろ覚え) とも言ってた。まさにその通りだ。わたしもそう思うんだ。でも、わたしは残念ながら、戒めの必要な人間なんです。
ほっとくと体力が落ちる一方だからできるだけ歩く。
適度な体重を維持する。
いらないものは極力捨てる。少し足りないくらいの状態を保つ。
大事にできないものは持たない。
例えば、普段巡回するサイトさんとかあるじゃないですか。
そういうのを、ふと、「本当に巡回しないといけないのか」と、自分に問いかける。なくても平気かもしれない。いやきっと平気なはず。平気に違いない。で、ブクマから消す。
逆に、すごく好きでというか好きだと思っている、好きなはずの何かを、あえて捨てる。依存しそうになると捨てる。そういうものって、意外になくても平気というか、ないほうが健康になれることがあります。タバコや酒のようにね。
サイトだけじゃなく、本とかも。読み返さないなら手放す。
そういうちっちぇーことなら月イチくらいでやってます。
失くしてから、しばらくしてから、それでもやっぱり取り戻したくて仕方なくなったりして、そういうときに必死になって探すのが好きです。見つかってももちろん嬉しいけど、見つからなくて寂しくなるのも好きです。
あのとき手放したお前が悪いんだ。いや寧ろそこで寂しくなるほど依存しているお前が悪いんだなんたらかんたらみたいな、意味不明な戒めを自分に課すんですね。結構やってます。年に20回くらい。
と、ここまで書いてからもしかしてこれって一種の病気なのかなとも思ったんだけど、どうなの? でも、誰も困ってないからいいのか。そうだY医師もそう言ってたから。
なんていうかね、心の穴、なんですよ。
心の穴が欲しいの。満たされてるとダメなんです。たまに穴を開けないとダメなんです。
そしてその穴を、ありあわせの手近な何かじゃなく、自分自身で埋めていく。そう簡単には埋まらないんだけど、それを自分の心の弱さとして(以下略)。
心の穴はできることなら、誰か他人の手で開けて欲しいんだけど、なかなかそういう機会はないですね。
「お前なんか、誰とも関わらず一人で生きていけばいいんだ!! どうせ誰にも何にもしてやれないくせに!!」みたいなことを誰か言い放ってくれないだろうか。
そういう人がいないので、仕方なく田島昭宇とか西島大介を読みます。あの人たちの作品読むと、自分がものすごくちっぽけな何かだと思い知らされる気がして快感です。
これでもわたしをみんなSって言うんだろうか。「自分に対してS」って言われるならそうかもしれないけどね。
いや、でも、確かに他人の心に穴を開けるのも好きですね。だからS?
しかし拳にあご乗せさせてSかMか判断するのあるけど、あれものすごい腑に落ちない。
Sがそこで他人の拳にあごなんか乗せるか? 乗せたとしたらそのときはS性を消してるから、目線なんかで判断できないだろう。
前サイトのブログでも書いたかな。
中学の同級生で、通信簿を捨てて帰る子っていうのがいたんですね。
先生が授業中、急にその子に、
「お前えー加減通信簿持って来いよ!」
って言い出して、意味がわからなかったんですけど、
「あ、通信簿な。今日電話の横にあったわ。忘れた」
って返事してて、でも、その子の近所の子が、
「うそつけ! お前の通信簿田んぼに捨ててあったん見たぞー!」
って横から口挟んで、どうやらそれがほんとのとこらしいんですね。
「お前そうやっていっつも持ってこんから、おれ毎回通信簿新しくつくっとるんやぞ!」
って、先生はさすがに困ってたみたいでした。
わたしはそのとき初めて、「通信簿を親に見せたくないから捨てて帰る」なんて選択肢があることを知ったんですけど、みなさんはどうですか。知ってましたか。今これを読んで初めて知った人もいるんじゃないでしょうか。
しかも通信簿って、再発行されるんですね。回収できなかったら再発行するんですね・・・。それも知らなかったんですけど皆さんは(以下略)。
思い出すたび彼を天才だと思う。
他にも、
「おれは幽霊は信じるけどUFOは信じひん。見たことないから」
とのたまう先生に、
「先生おれのおかん見たことないくせにおるって信じとるやんけ!」
って即返したこともありました。
確かにそうなんだ理屈はそうなんだでもそんなこと一瞬で気づかないよ!
風のうわさでバイク事故で死んだって聞いたんだけど、ほんとだったら惜しいなあ。
ケンヂ(20世紀少年)の歌(コロッケの)って、ほんとにロックなの? 映画見てないけど、原作で見る限り、どっちかっていうとフォーク・・・そうでなければポップスって感じなんだけどな・・・。
わたしは連載を本誌で(立ち)読んでたクチですが、最初のスピード感はすごかったなー。
いつもちょっと先を描いてくれるのね。こっちは必死で追いかけてくしかない。
しかも現実と微妙にリンクしてるんだよね。締め切り考えたら知って描いたわけがないと思うんだけど、狂牛病とかリンクしててすげーって盛り上がりまくってた。
あのスピード感と時代性で最後まで突っ走ってくれたらよかったのに。
「俺たちの20世紀はまだ終わっちゃいねえぜ」って感覚は、なんかすごくわかるって思った。
ミレニアムだ2000年だって言ってるけど、大騒ぎした大予言もあっさりスルーだったり、何だか色々やり残したことがあるっていうか、時代が変わったって実感がないっていうか、そういう感じ。結局何も変わってない自分たち。そしてただの昨日の続きでしかないこの世の中。
そういう中で始まった連載でした。(わたし的には)
いつだって今だって、カッコいいのはロックとバイクだぜ。みたいな。
連載の最初のうち(血の大みそかまで)は、「ああ、そうだよね! カッコいいものはいつまで経ってもカッコいいよね!!」って共感できたんだけど、あんな長い連載をそれだけの価値観で引きずってかれてもなあ。
なんつーか、連載長すぎて(休載も多すぎて)、その間に完全に時代が変わって乗り遅れたとしか。時代を描く漫画には、連載の長期化って劣化そのものかも。
ここで『代紋TAKE2』を思い出せる人がいてくれれば、わたしの言わんとするところは伝わりやすいかと思います。あれ、世にも奇妙な的オチなんだよな・・・。連載開始時の感覚では斬新なオチだったとは思うんだけど、21世紀にあれはないよ。さむいさむすぎる。
で、20世紀少年もあれだけやって結局あのオチなんだもんなあ・・・。
わか(ってると勝手に思って)るけど。20世紀に俺たちがやり残したこと。俺たちがちゃんと終わらせないといけないこと。なんでしょ。テーマはわかるが、あれだけ長い連載の終わりとしてあれはどうなんだろう。
ほんとに、最初のスピード感であそこに落ち着いてくれるなら、それで満足できたような気がするけどなあ。
こないだ『エリートヤンキー三郎』で2ヶ月ほどでやった内容※に、巨匠が徒に何年もかけたように思えてならない・・・。
ちょうど20世紀少年の映画完結編公開と時期が重なってたのは、下から目線の皮肉なのかなあとか勝手に勘繰ってます。
ていうか大抵の人が、途中でめんどくさくなったり飽きたりわけわかんなくなったりしたよね? わたしもまさにそれ。で、最終回見て、自分の脳内で勝手に辻褄合わせた。
総括としては、確かに大作だけど超大作超大作超大作超大作言うほどの超大作ではないので、言わないほうがよかったのでは、という感じですかね。でも、それだけ言ったお陰で映画の動員数が伸びたのなら興行的にはいいのか。
※ 主人公の学校の生徒(不良たち)が次々と襲撃されて、最後の最後に現れた黒幕が、「誰????」っていう誰一人覚えてない奴だった話。結局主人公への逆恨みが動機だったらしい。これ、すっげー20世紀少年とかぶるんだけど。
「鏡に映る像は左右対称」と思ってしまうのはなぜか。
「だってどう見ても左右対称やもん」て、大抵の人は返してくるんだけど、「どう見ても」なんてことは絶対無い。その認識だけはおかしい。「左右対称と言えなくはない」とか、「左右対称って言い方が伝わりやすい」なら同意するけど。
「左右対称」っていうのはあくまでひとつの画像についていうもので対象の軸がどうのとか、それはもちろんそうなんですが、わたしが異議を唱えてるのはそこではなくて。「左右」の部分なんです。
まあ、いいんだ。中学のとき気づいてからずっと、誰に言っても今の今まで、一度たりとも同意どころか理解もされたことないし。
あまつさえ頭おかしい扱いまでされたこともある(うちの家族、否定の語調が超強いから)。
他にも、「走ってる人の後ろには、その走ってる方向に風が吹いてる(空気の移動がある)」についても、「カーナビは衛星とやり取りして現在地から目的地までをナビしてる」についても、そんなことあるわけがないと全否定された。うちの家族は何で、あんなに他人を否定するとききつい言い方するんだろう。
うちの父なんか、自分の意見と辞典や文献の内容が違ったとき、「辞典が間違ってる」と何の疑いもなく主張する人でした。わたしもあんまり人のこと言えないけどね。
話が逸れましたが、「鏡に映る像は左右方向に対称というわけではない」という意見を、周りの誰にも理解されずにいたわたしは、しかしあるとき、赤本の国語の問題で同志と出会うのでした。
認知心理学だったか何だかの学者さんの文章で、そのことについて語ったものがあったんですね。
初めて同じ考え(もちろんわたしよりはるかにきれいな結論をつけてらしたけれども)の人を見つけたときのあの喜びは筆舌尽くしがたいものでした。いやまじで。
別に学者が唱えてるからって、必ずしも正しいとは限らないんだけど、それでも、ちゃんと考え抜いたら同じ考えに至る人がいるということが嬉しかった。
そういう風に、近しい人間に同意や理解をされない人間が、本を読むのではないかと思います。
近しい人間とだけでは心が満たされないとき、孤独を感じるとき、遠くの誰かに手を伸ばす。
だからといってそんなものを描きたいわけでもなんでもないんですけどね。
孤独を感じないならそれにこしたことないし。いいじゃないか周りの誰かがわかってくれるなら。
それに本を読んで勝手に理解されたとか同じだとか思ってるだけってのも問題だしな。好き勝手思い込んでるだけの可能性もあるし。
結局何が言いたいかっていうと、本ばっかし読んでたらダメってことです。
最近、ある人のブログを見て心底そう思った。